草刈り機の音がやんだ。
振り返るとおじいさんは作業の手を休め、土手に腰を下ろしてじっとこっちを見ている。
田んぼの横のこの川で釣りをする人は珍しくもないだろうけど、ちょっと変わった道具を扱う僕に興味がわいたのだろうか。
ま、せっかくだからフライフィッシングがどういうものか、おじいさんに見せてあげよう。
キャストするとバシュッと水しぶきが上がったが、空振りしてしまった。
おじいさんはしっかり見ている。は、恥ずかしい。
誰かに見られる釣りは慣れてない。意識するなあ。
意地になってキャストしたが、あとはつっつかれる程度の出方でやっぱり掛からない。
そうこうしているうちにまた草刈り機の音が鳴り出した。おじいさん、作業再開。
僕も次のポイントへ向かうことにした。残念。
それにしても快晴、無風、ほどほどの気温と、釣る方にとっては申し分のない条件。これで良い釣りができなきゃあ、ちょっと問題があるなあ。
そうこうしていたらようやく一匹目が出た。無論おじいさんの場所からは見ることはできまいが。
快調に釣れ出すと、なんだか逆に心配になります。
ふと空を見上げるとクマンバチとおぼしき虫がホバリングしているのが見えた。
近くに巣でもあるのか? ちょっとこわいのですぐ退散。
ちらほらとカゲロウが飛び出し、ミドリカワゲラの姿も目に付いてきた。
そして二匹目。なんだか割と良いペースで釣れてきた。サイズがもうちょっとだが、よく太ったヤマメはロッドを気持ちよく曲げてくれる。
田んぼでカエルの鳴き声が響いていた。僕はそのリズムに乗ってキャスティングを続けた。
渓流のフィロソフィー、アマガエル様。
バサッとフライを引ったくるようにして出た三匹目。
ここのヤマメはサイズの割によく太っている。それに尾びれも大きいから泳ぐ力の強さが見てわかる。
またカゲロウが飛び去った。大型だ。同じくらいの大きさのガガンボも目立つ。そして四匹目。
目に付く虫にシビアに合わせたフライを使わなくても、サイズが近ければそれなりにヤマメは出てくれるようだ。これなら楽でいい。
今日はテンポよく数を釣る、というノリの日だな。そういう気分だし、そういう条件が整っているように思えた。
なんとなく気になってまた空を見た。
いる。さっきのクマンバチがまた頭上でホバリングしている。
さっきと同じヤツだろうか? 場所はずいぶん移動しているが、同じように上空で滞空している。まさかね、気のせいだろう。
それにしても今日の釣りはなにやら珍客が多いようだ。人にしても虫にしても。
そして肝心のヤマメはというと、あれよあれよと十匹を越え、時間当りの釣り上げ匹数はかなり濃いものになった。
いったん昼食をとりに車へ戻ることにした。これくらいいペースで釣れているからこんを詰めて釣り続ける必要もない。

車へ戻る途中で集落を通り抜けた。今は田植えの前の農作業の最盛期のようだが、田んぼはひっそりとしていた。
どの家も昼食をとっているのだ。お昼時に昼食を取るのは当たり前だが非常に健康によろしい。釣りに集中しすぎて昼を食べずに釣り続けるのも時と場合によりけりだな。
ヤマメ様の食事はハッチで時間が決まる。
ひとけのない集落を歩いているとなんだか妙な感覚だ。
川沿いにはなにやらいろんな訪問者がやってきたのに、人の住む場所には人も虫も鳥も見えない。
無人とも思えるような集落を過ぎて車へ戻った。
おにぎりをほおばり、車を上流へ移動。そこから少し歩いて戻ってさっき上がった場所から釣りを再開することにした。
気にはなっていたが釣り始めてすぐに空を見ると、やはりまたクマンバチがいた。
こいつはどうも僕を監視しているとしか思えなかった。
閑散としたお昼時の集落。腹減ったなあ。
羽化直後のトンボ。でかいとえぐいんだよね。 キンポウゲが山里に色を添えて。
警戒して監視しているのだろうか? なんだか気持ち悪いなあ。
フォルスキャストをするとフライラインがクマンバチの近くを通過する。その時だけクマンバチはラインをかわしてどっかへ飛んで行くが、ちょっとするとまた戻ってくる。
不意に気配を感じた。
土手に人影、いや早い。なんだ?
また影。猿だ、猿の親子が土手を駆け抜け、川の石をジャンプしてまるで源義経の八艘飛びのように対岸へ渡っていった。
なんとも落ち着かない釣りになってきた。
さあさあどうぞお帰りください、ヤマメ様。
今日の釣りはいろんな訪問者がくるなあと思っていたが、彼らはみんなここを生活の場にしている。よくよく考えてみるとよそからの訪問者は僕のほうだった。
また川原の石の上にカエルがいた。じっと見ていると、こやつはいったい何を考えいるんだろうと、思った。
その眼差しと物思いにふけっているようなポーズは、なんとも思慮深い生き物ではないのかと思えてくる。

カエルにじっくり見つめられていると、朝の草刈りのおじいさんを思い出した。それぞれにずっと川といっしょに生きてきた。その目は川をひとつの通過点としている自然のサイクルを厳しくくまなく見続けて、すでに達観しているような目だ。
ここでもいささか緊張気味のキャストでなんとか数匹を手にし、カエル様の御前ポイントをあとにした。
人よ、汝の愚かなることを知れ、
と言ったかどうか(^_^;