其の百七  川を見る人々
毎年恒例の放流。今年は雨が降ったり止んだりの、微妙に際どい空模様の下で行うことになった。
明け方にひと雨降ったであろう山里には霧が立ちこめ、ピークを過ぎた紅葉も風に吹かれて舞っていく。
今年もあとひと月、解禁まであと三ヶ月。そんなカレンダーを見るまでもないわかりきった事を、わざわざ北部の山里へ出掛けてヤマメの放流という作業で実感する。
なんとも遠回しで無駄の多い確認作業だが、そこにこそ価値がある、と思いますがいかがでしょうか?
さあ、バケツの中にいつまでもいる訳にはいきませんよ、ヤマメさん。
通い慣れた川へ魚を放すのは、来年にどれだけの期待をしてのことなのか。僕にとってはこれはこの日の天気のように微妙だ。
放流の成果を実感するに至る釣りを僕は経験したことがあまりないからだ。
いやそれでもと、漁協のトラックのタンクから汲み出されるバケツいっぱいのヤマメをせっせと運ぶのだが。
放流は放流として、それが自分の来年の釣りと結びつかなくても、なにかしらイメージすることはある。
それに中には放流ポイントで翌年にいい釣りをした仲間もいるし、そういう話を聞くとやはり期待を込めてヤマメを送り出すのも釣り人の性か。
様々な思いをこめて(?)、ヤマメを放ちます。
「あ〜、見て見てあそこ。でっけぇ〜」 「お〜、今度はこっち。すげ〜」
普段はなかなか釣れなくてようやく釣り上げた時に目にすることの出来るヤマメも、この日はいやというほど眺められる。
いましがた放したばかりのヤマメをじっくりと眺めたり、それ以前に前からそこに泳いでいる魚を探したり。放流したてのヤマメはわざわざ見る必要はないんじゃないかとも思うのだが、自然の川に放たれたヤマメの泳ぎっぷりはついつい見とれてしまう。それはそれがすぐに釣りをする訳ではない、まずはしっかり育ってくれと見守る立場であるから故の心理だなあ。
養魚場にはない深い淵へと向かう。 足元から離れたがらないやつもいます。
そもそも釣りで釣った魚をじっくり眺めるということをどれだけするだろうか?
僕は写真を撮るのでそちらに一生懸命なので、ファインダー越しではない自分の目でじっくりと見るというのとはちょっと違う。
写真を撮り終えたら弱らないうちに流れに返そうとするから余計に見る暇はない。更には次のポイントも待っているのだから、どちらかというと悠長にヤマメを眺めるというのは、釣りをしている時の釣り人の心理とは逆行しているようにも思う。
久しぶりの川歩きは、足元がおぼつきません。
せめてこんなゆったりとヤマメを眺められる時にはとことん眺めるのもいいものだ。
その魚体、その表情、その量感。それは釣りシーズンのヤマメとは少し違う印象がある。人の立場もヤマメの状況もそれぞれ違うのだから、その接点にもその時ならではの固有の趣があっても不思議ではない。

そんな放流したてのヤマメが泳ぐ川を、計ってそろえたように並んで眺める釣り師達。
お疲れさま(^_^)
石の下の隠れ家がいたくお気に召されたヤマメ様。
「あ、あそこ、水底に! 動いた!!」
「・・・ゴリんちょじゃん・・・(・_・;)」