其の百五十二  本で行く釣り旅 
夜な夜なパソコンであれこれしてネットを徘徊していると、なにかほかの時間が削られていくことになる。
僕の場合、まず筆頭に上がったのが本を読む時間だった。
釣りシーズンならなおのこと、時間がなくて本なんか読めない。
すると禁漁になったこの時期、やおら今までたまっていた本を読み出す。買いそびれていた新刊もかいあさる。
そしてその中には釣り関係の本も少なからずある。
オフシーズン恒例の、本買い込み、まとめ読み(^_^;
釣りの本にもいろいろある。紀行文であったり、釣法のマニュアルやフライのパターン、ロッドなんかの道具に特化したもの。
どれも読み始めると、筆者の辿った道筋を活字を目で追いながら遡ることになる。
そうすると、それぞれの本のおりなす世界を疑似体験しているような気分になるのも本のいいところだ。
フライフィッシングの特異な世界は部屋に居ながらにしても、タイイングやタックルを前にするとその雰囲気はよみがえるが、本のもたらしてくれるものはもっと多岐にわたる。
アメリカの釣りの本ならアメリカに行った気分になる、とまでは行かなくてもその舞台となる場所の空間の筆者が伝えようと意図しているところは伝わってくる。
仮想体験の中では、自分は本に書かれた登場人物の誰かになるのだろう。
文章の中の登場人物の目線で、自分の知らない土地での釣りを体験したり、ほかの人との関わりを持ったりする。
文字が表現する範囲でしかないのに、その知らない土地の様子はなんだかリアルで、接する人ひとりひとりの表情も目に浮かんでくるようだ。
もちろん釣りの描写では、自分の体験も手伝って、さらに臨場感が加速する。
こんな分厚い本に惹かれることがあります。
川の流れ、木々のざわめき、水面の陽光のきらめき。
そして視界の端にカゲロウの飛翔が映り、ライズリングが広がる。
ロッドを振り、ラインが伸びてフライが水面に落ちる。そして・・・。
ここまで来ると、ひょっとしたら本の手を借りる必要はなくなることもあるだろう。ここから先はどんな文豪の表現力よりも、実体験で染みついている自分自身の記憶が道案内してくれるから。
ともすれば、その本の一部のシーンは自分の言葉に置き代えられて、そうとは気付かず僕は無意識に読み進めているのかもしれない。
本と自分の記憶とで、まだ見知らぬ川へ釣り旅行へ出掛けられる。ページをめくるとその向こうには絶好のポイントがあるに違いない。
僕の投じたフライに、なんの疑いも持たずヤマメがゆっくりと浮上する。
ただそれが釣れるかどうかは、次のページに任せることにしよう。