その37 水辺のファインダーにもの申す(2) 
少し記憶をさかのぼって自分の釣りのスタイルを思い出してみると、やはり今同様カメラだけは常に持ち歩いていた。違うのはデジカメではなくフィルムのカメラだったということだが、その違いが随分釣り場でのシャッターを押すときの趣を変えているな、と最近よく思うようになった。
同じ「ファインダーをのぞいてシャッターを切る」ということでも時とともに変化を余儀なくされたのだろうか?
このレンズを使い倒せと、そういうこと。
今でこそデジカメの仕事と言えばホームページで使うことを前提とした、その日の話の流れに準じた「絵の確保」の意味合いが強くなっているが、フィルムで撮る場合はそんな制約はない。撮りたいと思うものにレンズを向けてファインダーをのぞく。そして、シャッターをき・・切ろうか・な? ん?いやまてよ、こうもう少しアングルを・・とか。
やはりフィルムは一回のシャッターで間違いなくフィルムを一コマ使うわけだから、かなり考えてシャッターを切っていた。そこがまずデジカメと大きく違ったところだろう。
ホームページ用の画像の確保・記録というデジタルカメラに対して、自分で言うのはおこがましいが、作品としての写真撮影がフィルムのカメラの意図するところとなる。ファインダーをのぞき、構図を決め、露出とピントを合わせてシャッターを切る。そこでほぼこの手のカメラの仕事は完結する。
だからこそ現場でファインダーをのぞく時は結構そう、マジなのだ。
3つ数えて振り向きざまにシャッターを切る。デジカメに勝ち目はない。
本棚の隅にキャビネ判のプリントファイルが並んでいる。フィルムカメラを持って釣りに行っていた頃のものだ。気が向いたらファイルの中の写真をぺらぺらとめくって見ることがある。
しかし何故だろう? リバーサルフィルムで撮影しプリントした写真は、青空はどこまでも青で新緑の山は深く緑に埋もれている。アマゴもヤマメもゴギもどれひとつ同じ表情はなく、同じ色はない。ただ見ているだけでファインダーをのぞきシャッターを切った時の記憶が断片的に浮上してくる。
パソコンのモニターで見るデジタル画像にしてもそういう記憶のカケラをたどることは出来る。でもプリントした写真の一枚一枚を手に取り、そのひとつひとつをその時の空気までも反芻(はんすう)するかのように見て思い返すのとは、比べる対象ではないように思う。
オートの機能が増えたとは言えまだまだ機械式のカメラで撮った写真には、デジタルカメラの大型のCCDに何百万ものピクセルの情報を写し込む以上のなにかがプリントされるような気がしてならない。
しかし日進月歩のデジタル機器の変化のスピードはきっと私の想像を越えている。たぶんデジタルカメラはフィルムカメラのポストなど狙わなくても、それ相応の目指すベクトルがあるはず。
そして私にしてもまだ釣行の相棒は当分はデジカメにお願いすることになりそうで、新しいプリントファイルが本棚の隅に追加されるのは、もうちょっと先送りになりそうだ。
まずは表現し続けること。私だってそれなりに忙しいのです。