その38 川の表情、ジブンの視線 
なんと水面が見えない。呆気にとられた。一面びっしり葦が密生しているのだ。よくある話だろうけどここも、だったか。
年末に帰省した時、「フライで寒バヤ釣りだ」ってはりきってロッドを車に積んで帰ったのだが、どうも使う機会はなくなってしまった。ああ、またごろごろ寝てばっかりの正月になりそうやね。
でも2004年の正月は晴れてはいたが風が強く、仮にこの故郷の川が葦で覆われていなくてもこたつから出る根性は果たしてあったかどうか。
子供の頃、この川で釣りをしていたときはハヤでもフナでも好きなだけ釣れた。河口から1Kmもないような所だが、その水の透明度や自然の岸辺の雰囲気はヤマメが棲んでいてもおかしくなかった。
上流にはかなり古いダムが2つあり、小学校の同級生と連れ立ってその地へ向かうことは、先人たちのなしえなかった偉業を自分たちが替わって達成しようとしているかのような、大きな使命をかかえたような気分になったものだ。
きっと今そのダムを訪れても、秘境の地みたいな印象なんて受けないのだろうけど、当時は深山霊谷の前人未踏の地(ダムだから人が未踏ってことはないか)のような存在で、いざ行ってきたとなればクラスではヒーロー扱いだった。
田んぼの中を流れる川の中流域にしても、生まれて初めて見た川がそれなのだから、その大きさが基準になる。川とはこんな大きさだ、と。
確かに身長は伸びた。何歳の何cmから比べるかだが、仮に2倍になったとしても、正月に帰省して懐かしい川を見た時の、川を小さく感じるのは決して子供の頃の二分の一なんてことはない。もっともっと縮んでいる。
もっともそう感じるのは川だけではなかった。町中の道路の道幅も小学校のグランドも、当時はまだ蒸気機関車の走っていた駅舎だって例外ではない。
ひょっとしたら上流の2つのダムも今だったらちょっと大きめの砂防えん堤くらいにしか見えないのかも知れない。
今なら釣りシーズンに中国山地の川へ出かけても魚の居そうなポイントにばっかり目がいって、あまり周りが見えていない。第一そういったエリアは渓流釣りを始めてから訪れ出したのだから、田舎の川の「子供の頃と現在」ほどの時間的なへだたりの比較対象は存在しない。
でもそれだけじゃなくて、見え方というのもあるのかも知れない。高速を車で何十キロも移動して、自分の生活のテリトリーから離れた所の川で釣りをする。それでも通い慣れた川なら風景の細かいところまで覚えてしまっている。でもそれは釣りが前提になっていて、山や川辺の観察もなにかしら釣果につなげられるような視線で見ていることが多い。
そういう釣りフィルター越しの風景は妙に事務的というか淡泊な印象でしか、目に焼き付いていないような気がする。
ところが子供の頃の釣りは、家の窓から見えるようなところにある川でさえ、なにか異郷の地におもむいて釣りをしているような特別な気分になったものだ。
釣りそのものが特別だったのか、川の流れが日常の中での特殊な状況を演出していたのか。とにかく印象深さは圧倒的に後者に軍配が上がる。

交通手段も道具もきっと釣果そのものでさえ、子供の頃になにひとつ劣るところなどある筈もないのに、
「もう少し周りの風景とかも見てみたらどうですか?」
なんて、葦に埋まった川を眺めながら幼い頃の自分にそう言われたような気がした。