其の四十六  そして、ページをめくる
いきなり読書である。
私の釣行エリアは禁漁になったとはいえ、近隣の県はまだ今月いっぱい釣りが出来るのだから、そんな月が変わって数日でオフシーズンモードにどっぷり浸かる事もないのではないか? しかし、すでにAmazonからメール便が届いている。
「秋の夜長の読書」はよく言われる事だが、いくらなんでもまだ秋って感じではない。
それでも最高気温は30度を下回りだしているし、なぜだか九月の釣りってあまりイメージ出来ない。今年のアツイ夏で燃え尽きてしまった(?) なんてね。
そう言えば、こんな本買ったなぁ。
去年の湯川 豊さんの「イワナの夏」以来、そっち系の本(結構古い時代の渓流釣りのエッセイや体験談)を読みあさるようになった。とはいえそこはそれ、釣りシーズンだとなかなか表紙を開くまでには至らず、買いはしたものの袋から出さずに積み上げられている、なんて言う状況も今ではよく見かける情景だ(それは私の部屋で特化しているだけか!?)。
そうなるとやっぱり読むでしょ、禁漁になったんだから。
いかん、いつの間にやら未読の本がたまっちょるし。
この手の本は最近は私が知る限りあまり出版されておらず、手に入れるものはほとんどが第1刷は1980年代のものだ。
20数年まえに書かれたのだから、その体験自体はもっと昔の事になる。仮に本の内容を30年前の話としよう。
ページをめくると、釣り場へのアプローチ(交通手段)から道具、釣果の数やサイズなど、今とは明らかに違う釣りの描写が記されている。魚を釣る行為自体はなんら変わるものはないのだが、当然フライフィッシングの出てくる話は少なく、キャッチ&リリースも日常的ではない。
ただ、釣り場の近くの里の人達との関わる描写はなにかしら通じるものを感じた。今年の私の釣りはどういう塩梅だか釣りに行く度にそういった地元の人との関わりがよくあった。釣りをしない人の釣りを見る切り口は、私の思い込みの予報円を大きく外してくる。その意外性が新鮮だ。
近県で釣りをする人のホームページでほんの数時間あるいは数日前の釣行の様子を見るのも、同じエリアで同じシーズンでの釣りの様子を見れて、それはそれで(ネットで繋がってるなー。情報の行き来ができてるなー)っていう臨場感があって面白い。
しかし、もっと時間の隔たりのある昔の釣りの話を紙媒体で読む事は、パソコンのモニターでは知り得ない、確立された世界を実感できる。
オンタイムの強い刺激はない変わりにやんわりと、でも確かな手応えがある。
一度読んだ本だって、また手にして読み返す時が来る(かな?)
今ではなかなか出会えない魚との遭遇や釣り場での出来事を読み進めるにつれ、そのリアルさと過ぎた時代の藻屑みたいな情景との狭間で、(いやそんなには変わっていないよ)と筆者の声が聞こえる気がする。
ページをひとつめくるだけで、何キロもの道のりを高速で走って料金払ってつづら折れの峠道を越えてようやく辿り着ける水辺の記憶が、目の前に現れる。
そして読み残したページの分だけ、明日に楽しみが残っている。
それは釣り落としたあの魚や、更なる遡行を断念したあのもっと上流の渓の情景に似ている。