其の五十四  川に放たりし Fry(稚魚)のホンネ(?)
毎年顔を出す放流のイベント。
「稚魚」と呼ぶにはちょっと・・いやかなりでかい(というよりシーズン中にでさえ滅多に見る事のないタクマシイやつまで)、バケツの中で暴れ回る魚達を川に放つ。
すっかり紅葉もそのピークは過ぎていて、
「もう少し早い時期だと下ってしまうところだった」と漁協のおじさんの言葉に、
「本流との合流点辺りまでですか?」と問うと
「うんにゃ、海までじゃ」・・だと。
むむむ・・・。
The river is stocked fry.
でもどうやら海まで下っちゃうとか・・
ワンポイント集中放流でその一角は酸欠状態に陥り、こりゃヤバイと思ったがすぐに復活したようだ。
禁漁期間はなかなか渓魚の姿を見る機会はないのだが(先週あったな)、放流の時の渓魚は釣りでキャッチした時とは微妙に違った表情をしている。
バケツからなかなか出ようとしない彼らはひょっとしたら
「養魚場の方がイイナ。だって決まった時間に餌をもらえるモン」なんて思っているのかも知れない。
川に出なくて済むんなら出たくないんですけど・・なんてね。
「住めば都」いや「のど元過ぎれば熱さ忘れる」でもないか。「青菜に塩」あ、こりゃ全然違う。
そうね、強いて言うなら「心頭滅却すれば火もまた涼し」・・・これもちょっと・・。
とにかく言いたいのはね、渓魚にとっての養魚場は自分たちを大事に扱ってくれるってのが前提の抜け出る事の出来ないぬるま湯みたいなもんなんだと思えちゃうって事、だろうか。

バケツから出たがっていない魚達を見てるとそんな人間の視点での勝手な解釈をした声が聞こえてくる。でも、ともすればそれは自分自身の事だったりしないかな? なんて、ぐさりと胸にこたえちゃう自問が容赦なく降り掛かる。
はてさて、シーズン中には鋭い針先でズバッとフッキングさせてしまう魚達に自分のあり方を重ねてイメージすることは、決して見当外れでもないような気もするのだが・・。
どんな場所からでもフェザータッチリリースができます。
こんなのもいました。シーズン中でさえお目にかかった事のないような。 あの・・、記念写真、撮りますよ。
「鱒達よ、野生に帰れっ」なんてこっちの都合で、魚達にたくましき独り立ちを強要する。
願わくば、来年の春は週末の晴れた日に適度にシビアなライズを繰り返し、2,3度フライを見切ったあとそれでも食ってくれたりしたら、釣り手的には言う事ないんだけどなぁ。
まぁそんなのは放流された魚の方にしてみれば、冗談じゃないッスって感じですな。1年間の養魚場暮らしを経験した身には、いきなりの自然河川はやっぱりきついっちゅーねん。 水、流れとるし。
それでもきっと、来春の再びの水面を割る魚達の姿を想像しつつ川をあとにする。
まさか魚達も解禁を意識したりはしまいが、勝手な釣り師のタクマシイ想像力は、キモチの高まりが釣り手側にも魚側にもあるような気がしてしまう。
来年をお楽しみにっ!

さあ、ハラ減った。めしめし、食うぞ。
集合場所ではアウトドア宴会の準備万端で、テーブルの上には酒瓶がゴロゴロ(?) まあでもこれも一興ですな。
すっかり木の葉も落ちて、山は冬の装いが・・。
じゃ、来年ね。