私はドライフライ用にオービスのフライボックスを愛用している。
フタにパッキンがセットされていて、例え水に落としても中が浸水する事はないのだ。水に落としさえすれば・・。
私がその日、フライボックスを落としたのは、不運(幸運? いや不運)にも、岩の上だった。
パッカン(なんかそんな名前の商品があったな)という音とともにフタは開き、見事に中身が飛び散った。岩の横は川である。
「おー、ナチュラルドリフトじゃ、スーパーハッチじゃ」・・・←アホか。
釣行を終えてふと見上げると、
見事なまでの原生林。
雨が降っていない。
解禁からそろそろ三ヶ月が経とうとしている。シーズンの半分だ。だいたいこの頃になると、川の様子もくたびれた感じが出てくる。毎週末の釣り人の訪問に、河原も底石も流れる水も、もちろんそこをねぐらとする魚たちも、なんだかぐったりして見える。
それに追い討ちを掛けるように、この日R君と私は川に出掛けてきた。
ただひとつ例外なのは、この川のカディスだ。あきれるくらいにたくさんの、元気に飛び回る真っ黒なカディス。ツツトビケラの仲間のこいつ、耳や鼻に入って来やがる。元気良すぎっ!
#12〜#14くらいのただ黒いカディス。模したフライはどう見てもテレストリアルになる。
釣りに集中したかったが、岩を乗り越える時に滑って尻餅をついて痛みでうずくまってしまった。その後今度は小さな沢のたまりで提灯釣りをしてみたら真っ赤な腹のゴギが飛びついた。差し出すロッドの上には枝があり結局合わせることは出来ず、すぐに外れてしまった。結構でかかったのに。
今日はなんかしらトラブルが続く。
R君は私を気にするそぶりはしてみせるが、すぐにロッドを振っている。まあ、それはそれでいい。
彼が美形のアマゴを釣ったのは川に降りて一時間ほど経った頃だった。そろそろ気温が上がり出す時間になってきた。朝から飛び回るカディスは健在で、R君のジャングルコックを使ったドライフライはそれにミートしている、ということらしい。
赤腹のゴギも回収し損なって流れていったフライ(20個くらい・・・)も今となってはしかたがないが、加えて目の前でR君が快調にアマゴやゴギを釣っていくのを見ると、やっぱりアセル。
私よりずいぶん若い彼は、全くなんの不安もなくロッドを振る。釣りなのだからなにも不安がる必要はない、と。
若い人の台詞だね。

今日の谷は深い。林道もどれくらい上にあるのかわからない。更にはかなり上流にまできているはずなのに、水量は衰える気配を見せない。
上空は新緑の枝葉がきれいに覆いかぶさっていて日光を遮り、流れにもなにか生気のようなものを感じる。
すぐにでもR君の良型に追従したいが、でもそう気を張らなくてもいいかなー、とも思う。風が私の皮膚を撫でるように日の遮られた水辺を涼やかに吹き抜ける。
水あり風あり緑ありで、快適この上ない。
黒いカディスが水面を飛び回っている。
その下にゆらゆら定位する魚が見える。これは・・・。私はフライボックスを取り出した。ここは黒でなければいけないような気がした。
カンが冴えていた。黒ボディのエルクヘアを夕べ巻いていたのだ。
・・・・? ない。
サイズは#12だ。見えない訳はない。
「!」
ナチュラルドリフト・・しちゃったのね、さっき落とした時に。しかし、ここは淡い色フライでも出るとは思うが、出なかったら後悔する。なんとかほかの黒いフライを探すが、やっぱりない。
後ろのR君が様子を見に近づいてきた。
私は手で彼を制し待つように促し、次に掌をパーにして「五分くれ」と言った。私もいつの間にかピリピリ気を吐いている。

なにかフライを黒くするもの・・なにかないか。墨とかマジックとか(そんな都合のいいモンあるわけないか)。
T社のフライを塗るペンとかってこんな場面にこそなのか。
なにか、なにか、なにかないか・・。あった。
手に持っていた!

私はリールのスプールを外した。グリスにギヤの塵が混じった黒い塊を指ですくってフライに塗った。すでに四分が経過していた。
フライはぬたっとして重く、すぐ沈むだろう。一投で決めなければ。
黒カディスのスケーティングする水面にキャスト。着水と同時に水面はよじれ、黒カディスは飛び散り、水中でパーマークがきらめいた。
今度は彼が私を追従する番だ。