六月と言えばあれだな、梅雨とかか。
天気図を見ると前線は南下したっきりで上がってくる様子もない。
天気がいいのは結構なことだが、雨が降らないのは結構ではない。
洗濯物はよく乾くが川までからからでは話にならない。

まとまった降水があるまでひと休みするかな。そんなふうにぼんやりと週末の予定を考えていたが、あっさり朝早く目が覚めてしまった。
あれ? 釣り道具は車に積んであるゾ。しょうがない、じゃあいくか。
(・・・どう考えても最初っからその気だ。確信犯だ。)
朝露のアクセサリー。そのひとしずくが釣りを左右(しないか。)
予想にたがわず川は渇水の高温で魚たちはいったいどこへ行ったんだろうって思うくらいに反応がない。
もっと上流か、もっと深い淵か、それとも誰かの胃袋か。人に食われるくらいなら自分が食っときゃよかったよ、ホント。
じきに日は高くなり、もっと気温も上がってくる。そうなりゃとことん釣れまい。
せめてそれまではと、折角の早起きを無駄にせぬようペースを上げて釣り上がる。

で、結局この日はお昼まで一回も魚がフライを追う事はなかった(!)
一匹の価値はサイズや容姿よりも、その日の状況下でどんな釣れ方をするか、にある。
木陰はいいのだが、一旦日の当たる場所へ出ると、日差しの質量をしっかり感じるほどその強烈な紫外線と熱を浴びせかけられる。
解禁当初は釣りそのものに体が慣れておらず、川歩きがしんどいばっかりだった。
春を過ぎて、山や川の景色も次の季節の前哨戦的な色合いを帯びて来出す頃、こんどは気温の上昇に体が慣れていない。しんどいしんどい、なんてことになる。
川の水に手をつけると、あの身を切るような冷たさはすでにない。
人間でさえ暑さでへばってるんだから、魚はもっとだろう。人は暑くても死にはしない(真夏の熱射病の頃は別だが)。でも魚にとっては死活問題のはずだから。

そうやって考えると、こんな状況の時にぶさいくなフライを太いティペットに結んでだらしなくドラグを掛けながら流していて、なにが釣れようものか。
もっと真剣にやれ(←天の声、いや川の声)
かるく ”夏 ” 入ってます。
すでに釣れる気が全くしない渓を辿って、この日の最後のポイントと決めていた滝つぼプールに着いた。こういうプールって釣れた試しがない。
手前を探った後、滝の落ち込み近辺に投げるためにプールに立ち込んだ。
「!?」
冷たい。こりゃ冷たい。この滝つぼ、高いところは木で覆われていて日差しも木漏れ日程度だ。いきなり目が覚めた。ティペットをチェック。クモの巣まみれのフライも取り換える。今までの道のりもここの釣れ方次第で吹っ飛ばす事が出来る。まずは左の岩盤沿いを流しつつ、滝周辺をじりじりと攻めていく事にした。
岩盤にフライをぶつけ弾かせて流れに落とす。直後その真下でぐるりと魚体がうねった。
釣果は大きいのを釣るか、数を釣るか、のふたつかなって思っていた。
釣り自体10年以上やっていて、なにかぼんやりとではあるが三つ目の釣果が見え隠れしてきたのはここ数年だ。
それは純粋に釣りそのものが導き出すものではなく、釣りを取り巻く様々な状況の変化がもたらすのかも知れない。
「ギャップ」である。

特に悪条件下での、意表を突いた一匹。困難な条件や難解なライズを、これは過去の経験だとほぼダメだな、って思い始めた頃に良い方向で裏切って魚が食いついてくれたら、それはただの一匹でも小さくても三つ目の釣果になり得る。
魚に捕食に対する疑いを起こさせないほど、
釣り手の株は上がると言うもの。
釣りに来てイスに座る事はほとんどなかった。あっても一休みするのに手ごろな岩に腰掛けたり地べたに座ったりで、それはそれで気持ちよかった。
車を林道の広場の木陰に停めて、ストーブに火を付ける。
ディレクターズチェアに腰を下ろすと、こんなに気持ちよかったかなーってびっくりする。キャンプの時とこうも違うものか。どこか三つ目の釣果に通じるモノがあるような気がした。
上昇する気温や魚に辛い水温や、オーバーヒート気味の私の頭の熱を気化させるように、一陣の風が吹いた。
青葉と雲を吹き飛ばす快風。