ドアの閉まる音がした。
(後続者? 私の車が停ってるのに、か?)
この辺り唯一の車を停められる広場から延びる林道を歩けば、私よりも上流側へ簡単にアプローチ出来る。
私も少し歩いてもっと上流側から始めるべきだったか、とここまでの区間の反応の薄さ(なさ)を考えると、入渓場所の判断ミスだな、こりゃ。

中国地方も梅雨入り宣言されて最初の週末、土曜日は雨、日曜日は晴れ。
土曜日は仕事、日曜日は・・・。考えるまでもなかった。
県境主嶺を挟んで東西に流れ出るいくつかの川の、西側の一本を今回釣行先に選んだ。
特になにがあると言う訳でなく、アメダスを見てもどこも同じような降水量だったし、だから "勘" で選んだ。
そこには新緑の頃は過ぎ、更に緑に磨きをかけた深く厚い森が待っていた。
ガウディのサグラダ・ファミリアを彷彿とさせる巨木(あっちは尖塔4本だったか?)
市内の降りようは結構なものだったが山間部はそうでもなかったようで、その谷は全く平然と平水だった。
雨が降ってようやく普段にもどったのだ。それでもここのとこの天気を考えればこれ以上の好条件はないだろう。
この谷も何年も来ていなかった。初めてに近い感覚で入渓した。すっかり忘れていたが、驚くほどの巨木が半分化石のように、半分苔むして立っている。
魚の反応はまだないが、期待は十分にあった。さっきのドアの閉まる音を聞くまでは。
あらわになった木の根にさえ芽吹く逞しさ。
にわかに気がついてはいたが、ケモノの匂いがする。
川上から風に乗って匂ってきているようだ。 鈴、鈴っ! 笛、笛っ!! 釣れていない時は、やたらにまわりの気配が気になる。 
ゾッ。なんか背筋に悪寒が・・。こんどはナンだ? 霊が居るのか? なんだかもう釣りに集中できんっ! 一旦戻るか? と・・、フライがない。
咄嗟にロッドをあおるとなにか引っかかっている。死体か?(そりゃいくらなんでもないか)
ああ、なんだ、ゴギか・・・・ゴギ?
視界を白いものがかすめた。
驚いてビクッと飛び跳ねて、ラインも足下に弛んでいる。もうなんなんだ、この谷は? ヤル気のないゴギはフッキングもしていないのに、ゆるゆるのラインの先にまだ引っ掛かっている。
おや、よく見るとなかなかのサイズ。しかもきれいなゴギだ。いいじゃんか。

先行者がいてもゴギならなんとかなる。クマでもゾンビでもかかってこい。こっちはゴギだ(じゃあない、ゴギ釣っとるんだ)。
しかし不思議なもので、いくら気味の悪い谷でも魚が釣れればあまり恐怖感は感じなくなる。気が紛れるのか本来の目的に集中できるからか、うしろを振り向き振り向きしなくても良くなってきた。

なにか流れが変わったのか、そのあとぽつりぽつりとゴギが釣れ始めた。
大きな葉いっぱいに強烈な日光を受け止める。これまた逞しい。
ハッとした。
人がいたのだ。上の方にある林道から斜面を下ってきたのか、初老の人が岩の上で三脚を立ててカメラを覗いていた。
レンズは対岸の逆光で緑に透けた大きな葉の木を狙っている。
私はその人から目を離せずにいると向こうもこちらに気がついた。そしてかぶっていた帽子を取り、会釈してきた。
(やられた!)
こちらも慌てて頭を下げる。車のドアの音は釣り師ではなかったのか。
その人は三脚をたたむと、そのまま斜面を上がっていった。
いつの間にかケモノの匂いも消え、緊張の糸が切れない間隔で、ゴギが元気よくフライを追ってきた。
原生林の谷の奥底にしっかり居たハイコントラスト模様の持ち主。
また白いものが見えた。上から落ちてきている。花だ。
さっきのもこれか。しかしこの場所では相当の数が今もぱらぱらと落ちてくる。少し質量は重いが、雪のようだ。川の緩いたまりにも流れ着いてかなりかたまっているし、岩や葉っぱの上にも積もっている。
桜吹雪の時にも思ったが、さすがにここのゴギもこれをエサとは思わないようだ。
ぱらぱら花が落ちる中、なにか不思議な雰囲気でロッドを振った。
帰って調べました。「大葉麻殻(おおばあさがら)」と言うそうです。
バシュッ、と静かなこの日にしては珍しい派手なしぶきで、フライが消えた。
合わせた時の手応えはなく、魚がどこに居るかわからない。ラインを辿るとなんと私の足下の岩の下に潜り込んでいる。
岩を乗り越え、反対側から引き出そうとすると呆気なく出てきた。そしてもとのポイントへ走った。
(でかいっ!)
ようやく見えた魚体は興奮モノ。そいつは二往復目の岩の下へ向かい、私はいつになく真剣にロッドをため、堪えた。

また大葉麻殻の花が落ちてきた。木漏れ日と花びらの作る岩上のモノクロのマダラ模様は、ゴギのそれに似ていた。
この木の下での昼ご飯は、上からの落下物に注意が必要です。