普通、晴れてはいてもなんとなく遠くの景色は霞んで見えたりするものだ。
原色のままが網膜に飛び込んでくることは稀だ。どうやらこの日はその稀な一日なりそうで、見るもののどれもが実に単純に原色のままでそこにある。そしてそれらは例外なく、眩しい。

R君が声を上げた。
木の枝にフライを引っ掛けている。僕はイトを直すR君の前へ出た。
ゴギは結構出てくるのだが、なんでだかリズムが合わない。フックに掛かってもすぐバレる。木に引っ掛けてフライをなくすことも幾度となく。
僕がようやく手にしたゴギは今年中学に上がるくらいの小さな子だった。
両岸にぎりぎりまで迫った渓畔林に挟まれて、狭い緑のトンネルの中の釣りはかなりしんどい。目論みでは前進が困難なくらいの濃いい魚影を予想していたのだが、それすらどこ吹く風で、実際風も吹いていやしなかった。
空が近い。太陽も近い(^_^;
R君は今年は身辺忙しくてなかなか釣りに行けないでいた。前回一緒に釣りに行ってからこの日まで釣りに行っていないらしい。
僕はと言えば、毎週末には川へ出掛けてちょこちょこゴギやヤマメを釣っている。良い身分ですな、感謝感謝。

この日R君に連れてきてもらったこの川は、二年前に一緒に来た時はゴギの大釣りをした場所だ。
連日猛暑日の街を脱出し、西中国山地で一番標高の高い川を目指したのは無理からぬ話だ。
網の目のような木漏れ日の下。紫外線はカットされてます。
前回ここを訪れた時も、数はともかくサイズはちょっと小さめのオンパレードだった。
この川のアベレージと言えばそれまでだが、もう少しサイズアップしてくれれば言うことはない。
この日もチビゴギがフライを追うが、それすらまともに釣れないのだから、ストレスはたまるばっかりだ。

しかし西中国山地最標高の川は伊達ではない。圧巻なのはその水だった。
ここまで無色透明なのも珍しい。調査はされていないだろうが、日本の名水百選に十分ランクインできるだろう。
そしてなにより水が冷たい。この水温ならゴギの生息にはなんら問題ない。更に緑のトンネルが日差しをさえぎり、街の猛暑とは無縁の生息圏だ。
ただクモの巣が少ないのは気にかかった。標高が高いとクモがいないのだろうか。それとも餌になる虫が少ないのか。だとしたらそれはゴギにとっても同じことだ。
セミの鳴かない夏の渓。静かさが逆に落ち着きません。
あ〜、猛暑日は川につかるにかぎるわい〜。 某カレンダーポイント。ゴギはいません〜。
進む先がやけに明るい。どうやら渓畔林のトンネルが途切れているようだ。
ここまでいくつか出てきたゴギは、全てが日陰の溜まりからだった。ギンギンに日の当たる流れではゴギが出てくる気がしない。
トンネルの出口の手前で一旦休憩をとることにした。ベストを脱ぎウェーダーもひざまで下ろして、渓の水で顔を洗った。
「気持ちイイ〜」とR君が声をもらした。僕も同感だ。岩に腰掛けるとそれに合わせたかのようにスーッと風が吹き抜けていった。
またR君と僕はそろって声を上げた。これまた極上の風のオードブルだ。主菜のゴギはまだ満足できるものではないが、前菜の方が十分に主役になっている。

R君は横になり、それから数秒ウトウトしたようだ。僕はせめて写真サイズの一匹を釣るためにリーダーをやり変えた。
できればトンネルを出たくないが、釣りに来たのだ。そうもいかない。
開けた途端、日差しの洗礼を受けます〜。
この日最初の日照りの流れに出た。空を見上げると雲が驚くほど速く流れている。そして近い。手を伸ばせば届きそうなところを形を変えながら渓の上空を横切って行く。
気が付くと日照りの強さの割に暑くないようだ。空気が乾いているのだ。
そして静かだった。セミが鳴いていない。ここ何週か、うるさいくらいのセミ鳴きの渓で釣りをしていたから、ギャップが強く感じられる。
そしてこの時期、そろそろ姿を現わすと思っていた常連が目の前を飛び交っている。赤トンボだった。
幸せ気分でお休み中のR君。極楽極楽〜。
あのゴギ達はどこへいったのやら。 わずかに残った住人。また来年。
赤とんぼと黒い大型の蝶が飛び交う中、見慣れない景色の中でロッドを振った。すぐ横の林以外に視界をさえぎるものがなくなっていた。
じきに流れももっと細くなって薮の中へ消えていくのだろう。

この流れのもっと下流で春から釣りを始めて、季節の移ろいとともに気温の上昇に追い立てられるように上流へと釣り場を移していった。
ある意味ゴギにとっても釣り人にとっても、この季節のこの場所は行き着く果ての流れであるようだった。
もうまわりに高い峰はありません。源流が近い〜。
霞まない景色が光を反射してくらくらする。最後の日陰で僕が掛けたゴギはオレンジ色の腹を見せてハリを振り切った。
振り向くとR君は笑っている。もうティペットを切ってラインを巻き取っていた。

今僕達が立っているこの場所が一番天空に近く、そこに住むゴギをそこに立つ僕達が釣っている。
そんな特別な時間を過ごして、R君はいたく満足したようだった。
また乾いた風が吹き、赤とんぼがロッドティップに止まった。
持って帰れるものなら持って帰りたい気持ちよさ。