いくら熱帯夜が続いているからといっても、早朝はかなり涼しい。でも町では日が顔を出すとともに一気に気温が上がるが、山はちょっとはましなはずだ。
熱帯夜が過ぎ、猛暑日に向かう日中に果たして渓魚は釣れるのか。
ここ一週間アメダスを見ていても目当ての川の辺りに雨はわずかしか降っていない。
猛暑と渇水、条件はかなりきびしい。それでもなにかが起こると期待して、山へ向かった。
高速を降りたらそこは霧に包まれていた。しかし霧の層を追い越しさらに標高を上げていく。
するとそこには全開の夏空が待ち受けていた。
これから向かう先の山は霧と雲でその姿を隠していた。
まだ朝のうちだから川筋は涼しい。そしてなんとも気持ちのいい風が吹いている。
ざわざわと雑木林が音を立てている。空は夏のそれだが、ここには猛暑の気配は全然ないじゃないか。この快適さだけでも来た甲斐がある。
川の中も今なら冷たく渓魚もフライを追うに違いない。一刻も早く釣りを始めようと川原へ降りて、足が止まった。
僕の知っているはずのこの川の、始めて見るような水の少なさだったのだ。
多少は予想していたが、こんなに少ないとは思わなかった。
一気に夏の空。しかし少しだけど何かが違う気が。
バサッとフライに魚体が覆い被さった。
あっと思ったが、遅い。フライは宙に舞った。浅い流れの中にもいくらかは深みのポイントはあるが、僕自身が集中を欠いていた。
釣れないと思う気持ちが先に立っていた。
しかし僕は思い出していた。
(釣りってこういう感じだったなあ。いや、釣れないっていうのがこういう感じだったな)
それにしてもこの川、クモの巣が全くない。八月下旬はもうクモが巣を張って虫を捕ることをやめてしまうのだろうか。
そういえばアリも見かけない。結んでいるのはアントなのだが。
水量が少なく日が当たっていたら、全く釣れる気がしない。
やはりどうしても水量が少ないとポイントだった所がそうではなくなっている。見る限りチャラ瀬が続く流れにどうしても戦意はしぼんでしまう。
水深が10cmもなさそうな平らな流れにフライを落とすと、ぐねっと魚体がうねった。また、あっと思ったが食ってない。
もう一度流すがもう出ない。うむむ〜、魚はいない訳ではないが、いそうもない所にいる。今までのセオリーが通用しない。気が付くとじっとりと汗をかいていた。朝の快適な風もいつの間にか止んでいる。
顔の周りにはブヨが集まり出していた。思うになんでブヨはクモの巣に捕まらないんだろう。もっとクモの巣に引っ掛かってくれりゃあいいのに。でもこの日のこの川のクモの巣のなさじゃあそれも期待できないけど。
山の稜線から日が射し始めた。
こうなると日の当たる流れでは釣れる気がしない。
それでも見た目好ポイントなら見過ごす訳にもいかず、一応投げてみる。
するとバシュっと水面が弾け、合わせたロッドにグンと魚の重みが乗ってきた。
思いもしない場所で出たから慌てた。魚はロッドを曲げてグイグイ引く。
僕は思い出した。
(魚が釣れるってこういう感じだったんだなあ)
ネットを差し出すがなんどもすくい損なった。ようやくすくったのは元気の溢れるアマゴだった。
やっとアマゴ様が出てくれました。ギンギンに日の当たるポイントで。
なんとか一匹釣ったから一旦車へ戻ることにした。
アシの密集地帯をかき分け、道路に出たら汗びっしょりになった。
もう朝の快適さは微塵も感じられない。
歩いているとブヨやアブや赤とんぼがついてくる。ついてこなくていいよ。
正面から自転車がやってきた。ロードバイクだ。すれ違う時、ロードバイクの人が会釈してきた。僕も慌てて頭を下げた。
どこからやってきてどこへ行くんだろう?
この天気で釣りも過酷だが自転車で山道をこぐのもかなりの運動量だろうなあ。
一旦車へ戻る。しかし暑い。全く町の暑さと変わらんじゃないか。
車で更に上流へ移動した。ゴギエリアに突入だ。当然水の少なさは流れの細さに比例してもっと深刻な状況になっている。
最初の時よりもっとブヨやアブが多い。虫よけも効きやしない。赤とんぼも数を増している。ミンミン蝉の鳴き声が遠くに聞こえている。
ゴギエリアも減水でポイントがあまりない。逆にわずかなポイントはなぜか木の枝がかぶさって邪魔をしている。そういう所だとまともにキャストしようがない。なげやりで提灯釣りみたいにフライを垂らしてみたらズバッと茶色い魚体が反転した。あわてて合わすが木の枝を気にしてちょっとしかロッドを動かせなかった。それでもフッキングしたゴギがロッドティップのすぐ先で暴れている。
僕は後ずさりしながらゴギを寄せようとしたが、あっさりバレた。フッキングが弱かったのだ。でかかったのに、残念〜。
狭い川筋をブッシュをかき分けながら進む。もうロッドを振るよりもただ歩いているだけの方が長くなっている。
珍しく邪魔な枝がない好ポイントが現れた。えてしてこういう場所にはゴギはいないものだが。
そっとフライを落とすとユラッと黒い影が近づいてきた。よしっと思った瞬間別の小さい魚が出た。黒い影は素通りした。なにしてくれたんだー、あのチビゴギめ。
諦めずにもう一度キャスト。黒い影がスッと出た。今度はやった。
ロッドを合わすとグイと重い引きが伝わってきた。
模様の濃淡の濃いゴギがネットに収まった。
戻ってきたゴギ。この夏をなんとかしのいでいるようです。
更に進むと川はどんどん狭く薄暗くなった。風も全くなくなり蒸し暑さが加速していく。
もはやポイントもなく、ただちょろちょろと水の流れるガレ場を歩いているだけになってきた。
猛暑の町から逃げ出してきたはずなのだが、山も昼になればとても快適とは言えなくなってきた。
釣りの方も良いサイズはことごとくバラしたり掛け損なったりでいいとこなしだ。
すると、いきなり視界が開けた。
上流から小さな落ち込みがその下にちょっとしたプールを作っていた。
おそらくここがこの源流部の最後のポイントになるだろう。
雑木林を通り抜けて涼やかな風が吹く。
僕は迷わず水の落ちているすぐ脇へフライを投げた。フライは一瞬見えなくなり、合わすと一気にロッドが引き込まれた。
大きく曲がるロッドをじわりと引き寄せるが魚はなかなか寄らない。更にロッドを引くとゆっくりゴギが浮き上がってきた。
僕はこの日の釣りの有終の美を確信した。するとゴギは水面で暴れ反転した。
フライは呆気なく外れた。
あ〜っと僕は声を上げた。そして思い出した。
(バラすってこういう感じだったんだなあ。くやしいなあ)
川筋を一陣の風が次の季節を乗せて吹いていった。

なんのこれしき、まだまだ釣りまっせ〜。