ずいぶん前に小さなチューブに入ったフロータントを持っていたことがある。これまただいぶ前にトラベル用の歯磨きにもこんな感じのチューブがあったなあと思いながら、僕はチューブのキャップをはずして指に取り出し薄く伸ばして鼻の周りに塗った。
薄々感じていたことだが、ここ数年標高の高い場所では記録的な大雪が積もっている割にそのふもとの辺りでは以前より雪が積もらなくなった気がする。
季節が極地化しているのだなあと思いながら僕は花粉予防の塗るマスクを塗り終えて、準備は整った。パリッと田んぼに張った氷が割れる音がした。
お待たせしました〜って、ヤマメはおらん・・・。
週の半ばにまた雪が降っていた。それでもこの川沿いはそこまで雪は残っていなかった。
もちろん一旦は積もったはずだから、それは溶けて川に流れ出たということだ。
水温が相当低いのは容易に想像がつく。それは最初っから覚悟の上だ。でもかなり手こずりそうな予感がした。

川筋に立つ。一応半年ぶりのはずだがもっと長く離れていたような気がする。
リールからラインを引き出すとジージーという音が響いた。この音は川で聞いてこその音だなあと思った。
霧氷とまではいかないが、みんながちがちに凍ってます。
いくらか目ぼしい場所を流してみたがなかなか反応はない。
風はなく雲もない。見事に晴れ渡っているがこれがくせ者だ。放射冷却でこの辺りは朝はー3度になっていた。
この寒さのことをわかっているのか釣り人の姿は全くなかった。漁協の車が見回りに来る様子もない。
ただ晴れているだけの川は水を上流から下流へ運んでいるだけが役目のような、無機質な感じがした。
車へ戻り移動。また川へ入り流す。そしてまた移動。
何度か繰り返しこの川の中流域までやってきた。相変わらず風はないので楽に釣りはできるが魚の気配はなかった。
なにか、釣りシーズンが始まったとは思えないような。
昼が近くなったので昼食をとりにまた車へ戻った。
僕にはまだいくらか余裕があった。ハッチを待っている。ハッチさえ始まれば、そして一番いい場所に一番いい時間帯に居ることだ。
その時その場所に居さえすればヤマメは釣れる。
僕はそう確信していた。

前の日に今年初の花粉症が大爆発した。くしゃみ鼻水が止まらなくてそれはもうひどいもんだった。
だから最後のあがきのタイイングを急きょ中止して薬局へ行っていくつか薬を買ってきた。
鼻腔の周りに塗る「塗るマスク」も花粉対策のひとつだった。
追い立てられるように上流へ。春の流れは太い。
しかしこの日は前日とはうって変わって鼻は全く平気だ。これは嬉しい誤算だった。
くしゃみが連発しだしたらそれだけで体力を消耗してしまい集中力も続かなくなってしまう。この日の晴天はかなり不安だったが、風もないことだしどうやら安心して良さそうだった。
昼食をとり、満を持してとっておきのポイントへ向かった。葦の川原をかきわけ進み、出た先には誰もいない川の小さいプールがあった。
水面は静かだった。僕は石に腰を下ろし少し眺めてみることにした。
気が付くと指がかさかさで少し割れて血が出ている。この辺りの乾燥状態は毎晩塗っていた軟膏じゃ効かないくらいに強力なものらしい。パウダーのフロータントが指に付くからそれでも乾燥が進むのだろうか。
足も少し痛む。午前中遮二無二川を歩いたので、不慣れと無理な姿勢が響いてきたようだ。
そして僕は薄々感じ始めていた。
ネコヤナギの花穂も少ないと寂しげです。
何年か前は解禁の頃は真っ白だったのに・・・。
毎回この季節の釣りで迷うのが、ドライを結ぶかニンフにするか。
今はハッチを期待しているのだからCDCのフローティングニンフを結んでいる。
それにしても・・・虫が飛ぶ気配が全くしない。いくら寒くても昼を回ればちょっとはぱたぱた飛び始めるものだが。
確かに水温も低いのだけれども。僕は待ちきれなくなりフライを重たいニンフに変えてポイントへ投げ込んだ。もうライズなんて望まないがヤマメが居ない訳はない。川底でじっとしてるやつをニンフで引きずり出してやろうと思った。
使わないと言っていたのに結局ビーズヘッドを使いました。
ニンフをいくら沈めてもインジケーターが動く気配はなかった。いきなり追いつめられたような気がしてきた。
僕はこのプールを諦め、また車へ戻った。
途中地元のおじさんが僕の方を見ていた。その顔はなにをしているんだ、というような表情だった。
僕は気にせず車に乗り込んだが、はっとした。(まさか? 今日はまだ解禁じゃないのか?)
釣り人も漁協の人も全くいない川。いやいやそんなはずはない。もう三月だしこのエリアは三月解禁のはず。携帯で日付を確かめる。一週間違えるなんてそんなアホな話はない。
とはいえこの川の様子からしておよそ渓流釣り解禁らしからぬ光景だった。
それに仮に一週間間違えていたとして、それが釣れない理由にはならなかった。
僕は徐々に感じていたことが現実味を帯びてきていると思い始めていた。
あれほど前日くしゃみ鼻水がひどかったのがこんなに平気なのは塗るマスクが効いているのではきっとない。
花粉が飛んでいないのだ。前日の花粉はもっと南部の市内に近い山からのものに違いない。
この辺りの山々はまだ花粉を飛ばすような季節ではないのだ。
花粉の飛ばない山、カゲロウの飛ばない川。それじゃあヤマメなんて釣れっこない。
だから釣り人も居ない。なんの違和感もない、予定通りの週末がそこにあった。
釣果は数字では表されない満足度で決まることがある。
車を更に上流へ走らせながら僕は自分自身に釣れなかったことへの予防線を張り始めていた。
この日の釣果への収まりの着かない気持ちを押し沈めるように、次で釣れればいいとかしばらく釣りから遠ざかっていたからとか。
そして僕は解禁当初に入るべきではないような上流域へ分け入った。もはやここの水の冷たさは尋常ではなかった。
余裕のなくなった僕は指のひび割れも足の痛みも無視して#12のパラシュートで水面を叩きながら歩き回った。
親指の幅ほどの体高のヤマメが釣れた時、僕はようやく目の前の白い山に気が付いた。
予定外、ということもありますから。