其ノ二百三十六  水辺の近況  マスと過ごす午後
日差しがあって無風だとちょっと暑いくらいだ。
日差しを見ていると、この暑さも標高が高いからそれだけ太陽に近いせいなのかなあと思った。
でも風が吹くとそこはやっぱり高原のそれだ。
僕は涼やかな風を受けて脳の体温が下がるのを感じた。
秋風を吸い込み肺にためる。なんとなくだが、こんな空気、体に良くない訳がない。
車に乗り込むと熱せられた空気でムッとした。僕はウインドウを全開にして車を走らせた。
静かな午後の時間が続いていく。
朝マスを見た場所には数人の人がいた。聞くと産卵観察会をおこなっておられるとこことだった。もう十数年続けておられるらしい。
しかもこの日11時頃この近くの場所でまさに産卵のその瞬間を見ることができたという。なんと、うらやましい。
僕は最初にここに来た時は時間が少し早過ぎたようだ。
今は別のマスたちが徐々に産卵の体勢に入ろうとしている段階だった。目の前の小さな流れには大型の雌と少し小型の雄数匹が僕たちの存在を気にする様子もなく泳ぎ回っていた。
勘で立ち寄った流れにもマスは登ってきていた。
朝方見た場所よりはかなり上流だ。まあ上流とは言っても平らな田園地帯の中だから、高低差はほとんどない。
それでも川の水はちゃんと流れているのだから、人間にはわからない高低差はあるということになる。そしてそれは変わることなく太古の昔から今に至るまで存在し続けている。
なぜかそんなことも不思議がりながら僕は最初の場所まで戻ってきた。そこはなにやら賑やかになっていた。
こんな田園脇の流れにも彼女らはやってくる。
迫力の雌。雄はなんだか貧相だなあ。
ブルブルと産卵床を掘る。おい隣のお前も手伝えよ。
マスを見ている僕たちをマスも見ている。
「雄と雌がひっつきながらブルブルし始めたらそろそろですよ」と観察会の方が教えてくれた。目の前のマスたちはそろそろその状態になり始めているようだった。
僕たちはその瞬間を見逃すまいと、流れに見入っていた。その時・・。
通りかかったトラクターからいきなり大きな声がして、僕たちの停めている車のことを咎められた。僕たちは大慌てで車の所に走りどかすことにした。
広い道で交通量も少ないから大丈夫だろうと高をくくっていた。まさにクモの子を散らすように、川のほとりから人はいなくなり、あとには産卵を控えたマスたちだけが残った。

びっくりしましたね、と僕が言うと観察会の人たちも頷いて笑っていた。
僕たちは車を近くのスキー場の駐車場に停めていた。観察会の人たちは歩いて川へ向かい続きを見ると言う。
地元の人たちも川のマスたちも今まで営んできた日常の続きをまっとうしている。
僕たちが産卵を見に来ることは、彼らには無関係のことなのだ。
僕たちがマスの産卵を見ようと見まいと、マスは川を遡り、地元の人たちにはここでの暮らしがある。
僕たちはそれをほんの少しだけそっとのぞき見させてもらうだけだ。
あとはそう、来年の釣りで思う存分その姿を見せてもらう事にしよう。

観察会の人たちはまたマスの産卵を見れただろうか。
僕は秋の深まりつつある里をあとにした。