其の百十一 フライフィッシングを始めた頃
雑煮にもそろそろ飽きてきた頃、はたと釣りのことを考えてみたりする。
もともと暇なのがわかっている帰省には釣りの本を携えて帰る。そうすると有り余る時間を本を読んで過ごす。だから案外正月の休みには釣りの感覚が戻ってきたりする。
ただ僕が読んだ本は現場でのノウハウだとかタイイングのTipsだとかの類いではない。
もっと情緒的というか感覚的なもので、釣りにおける位置づけとしては、釣りに出掛ける時の引きがねとなるようなものだ。
釣りにどういったものを求めるか。どんなことを期待するか。そんな漠然と埋没している感覚を呼び起こす役割をはたしてくれる。

今年の正月も御多分に漏れず暇を持て余し、たくさんの本を読んだ。するとなにとはなしにフライフィッシングを始めた頃の、接するもの全てが新鮮だった時のことを思い出した。
川を知らない分、なんの制約もなしに見れた川。
まずは道具立てにのめり込んだ。ロッドにリール。これがフライフィッシングを象徴する。ついでフライベスト。これもまたフライの顔とでも言えよう。
ショップでこれらをひととおりそろえた日の夜は、壁にロッドを立て掛けてじろじろ眺めて悦に入っていた(キモチワルイ?)。
今でも新しい道具を買えばそんな感覚ももちろんあるが、フライを始めたばかりの頃の衝撃(?)には足元にも及ぶまい。それだけ目が肥えたというか贅沢になったというか。
そして道具をひととおりそろえたあと、初釣行とあいなった。
キャスティングもままならず貧相な出で立ちで(ここで貧相というのは様になっていないという意味であります)たどたどしい川歩き。
難関はノットで、とにかく結べない。結べても引っ張ると切れる。自分もキレる。
当然魚も出てこない。初釣行は三月で、まわりはまだたっぷり雪があり、そんな中でのドライフライ(なぜかホワイトカーフテールをたっぷり使ったウルフパターンだったと記憶している)。そりゃ釣れんわ。
雪の残る釣行とは言え日差しはやわらかくあって、しっかり着込んだ上でのウェーディングは暑くてしよーがなかった。
小さな堰堤も大きな意味を持つようになった。
めでたく初物を釣り上げたのは、初釣行からひと月が過ぎていた。
その頃の釣りの様子を思い浮かべても、景色とかがあまり思い出せない。どのあたりの川へ行ったかは覚えているものの、それこそ不慣れのへたくそは目先のポイントにフライを投じるのに精一杯で周りの景色を見る余裕などあるはずもなかった。
しかし考えてみればそんな余裕のない周りの風景を見ていない釣りでさえ、実に印象深く残っている。それはそんなあたふたどたばた釣行そのものがひとくくりの風景になって僕の記憶に残っているからだろうか。
釣りに行けない時には、なんとも謙虚に初心の気持ちを思い出したりする。そんな謙虚さは釣りが解禁になったらカケラも見せない。
釣りから離れている時だからこそ、まだ欲のない頃の感覚を取り戻せる。
初心の時は二度は味わえないが初心を思い出して今を向き直ることは出来る。

なんて今考えたりしても、やっぱり解禁になればそんなしおらしいことなんて吹っ飛んでしまうんだろうなあ。
こんな肩の力の抜ける川も好きです。