確かK氏にとってこの川は竿を出したことのない、”行きそびれつづけていた”川だった。
日を追うごとに夏の終わりに向かう気配があちこちに感じられてくるこの時期、禁漁を目前にして意義ある有終を飾るための舞台として、K氏は ”源流”を選んだ。もちろん獲物はゴギだ。
私も今年はゴギを良く釣る。今年の釣りを締めくくるのはひょっとしてこいつなのかも知れないと、遠慮なく太いティペットに結ぶでかいフライに過度な期待をかける私とK氏だった。
源流釣行の必須アイテム「ピカッ!」
林道沿いをすでにかなりの上流域まで進んでから木陰の離合帯に車を停めた。
夏も後半から相次ぐ台風や不安定な大気の影響でそこそこに雨が絶えていない。だからといってこれほど増水していようとは。私もK氏にしても予想を上回る水位にたじろいだ。
渓相にもよるが増水にも限度はある。
「水も増えすぎると釣れなくなる」とK氏はぽつりもらしてキャスティングを始めた。

春はライズを探し、新緑の季節は緑にも目を奪われ、更に季節が進むと川の水位や気圧配置が気になり出す。盛夏ともなれば水位やクモの巣、ブヨやアブはもちろんだが、連日の真夏日更新でうんざりの気温に奪われていく体力も問題だ。
そんなきっと渓流で釣りをする輩が同様にかかえている懸案事項(?)も盆を過ぎるとまた少し様子が変わってくる。
K氏の懸案事項は足腰の衰え(!?)
それは間断なく降る雨のせいなのか、クモの巣がやたらと無くなっている。セミの鳴き声も遠くからでしか聞こえてこない。赤とんぼの群れ、そしてふと吹き抜ける涼風・・。
そういや街でも夜はなにやら虫が鳴いているし、どうもしっかりと秋めく準備がそこここで始められている。うすうすとは気がついていたが、山へやってくるとそれが如実にわかる。
じゃあ快適な条件で気分良くゴギが釣れるかと言うとそうはいかないのが釣りというものである(!?)。
ゴギにとってもこれからの季節のほうが過ごしやすいに決まってる(?)
このころはまだフォルスキャストしながらてくてく歩けていた。 それがある区間を境に川は見上げる角度から流れ落ちるようになった。
ゴギの反応にもかなりのムラがあった。
増水でポイントがなくなっていることも影響したが、それだけではなくある区間からそれまで延々反応がなかったのに急に続けざまにフライに飛び出してくる。サカナが増水時に避難しやすかった場所に固まっていて、その場所の居残り組が出た、ということなのだろうか?
魚影が濃くなりそれまでの距離歩き続けた疲労などどこかへ飛んで行ってしまうのも釣り人の便利な性癖で(性癖か?)、さあこれから・・と言う段になってその先に立ちはだかるモノに、私もK氏もようやく気がつき始めた。
もとより源流狙いである。
現時点での現在位置が川のどの辺りに位置するのか、正確なところはわからないが、明確に情報として手に入れられるものもある。
目の前の光景だ。
果たして・・、とK氏はぼんやりと考えた。今日の釣りはこういうつもりだったのだろうか? と。
そうではない。もとより源流狙いなのだから釣りのイメージはでき上がっていた。
イメージ出来ていなかったのは、K氏自らの体力の方だった。
筋肉のオーバーワーク解消を、滝つぼの冷却効果に求めるK氏。
ゴギにとっての源流帯は老かいな釣り師を拒む「壁」となりうるのか?
急峻な巨岩帯が行く手を阻んだ。
その巨岩によって形成されたプールには確かなゴギの気配がしっかりとあり、ワンポイントワンキャッチは保証されていた。
しかし、である。
次のポイントへの道のりのなんと遠い(高い?)ことか。ひとつポイントを攻める度、次のポイントへ向かうのにひと岩、登らなければならない。しかも、帰りは登っただけ降りなければならないのもその時点で決まるのだ。
K氏は歩を止めた。
我が肉体の悲鳴を聞いたのだ。
よもやこの日の釣りが自分の体力の現実たるやいかに・・を自ら知らしめる事になろうとは。

K氏は上流へ顔を向けた。
その圧倒的な壁に押しつぶされたのではない。自分にだってこんな『次なる険しさ』へ挑んだ事もあったのだ・・と。
奥深い谷あいにクマよけのピカチュウの叫びが響いた。
「お手上げ」ではない。
 釣ったサカナを寄せているのだ。

後日、1:25,000の地形図を購入し、あの川のその先を見てみた。
私たちが遡行を断念した場所はきっとまだまだ源流と呼ぶにはほど遠い。更に急峻な流程がそのあとも続いていた。しかもその先には滝まで記されていた。

地図を眺める。
私はどうだろう? あの、更に先へ・・などと地図に上流の景色を重ねてみた。
人は間違いなく老いる。私とて例外ではない(腹も出てきちょるし!)。
しかし・・・である。
「わしゃやっぱりこういう川がええ」と
 いつもの川で、いつものK氏。