霧が晴れると季節までもが変わって行くように、じわりと気温が上がってくるのがわかった。
梅雨入り前あたりになると、釣りに向かう時間も少し早くなる。その分釣り始めと何時間かが経ってからとで、体感温度はかなり変わる。
薄手のウィンドブレーカーを来たり脱いだりで調節するしかないが、ふと、そういう季節にまでなったのだと、毎年のことながらまた、そう思った。

釣行前夜は「明日はどこでどういう釣りをしようか」とぼんやり考えたりする。
この時期ならあの川、と言う具合にその季節でおおよその釣行先のパターンは決まっていて、ここ数年はそこから逸脱したことはなかった。
このV字谷の奥底に埋没する日々。
その谷は僕がフライを始めた年の禁漁前の最後の釣りに来た場所だった。
友人に教えてもらった「夏でも釣れる」川だった。次の年はそこへ通った。何回もかけてほぼ全区間を釣り上がった。だからどこらあたりがどんなカンジで、とかいうのもほとんど頭に入っている。

夜、焼酎を飲みながら、(明日はどこでどういう釣りをしようか)とぼんやり考えた。
この季節だと、案外どこへ入ろうかと悩んだりするものだ。
そして、あの川を思い出した。
今ならどの区間だろう。あの中流域のあのあたりからか・・・。
釣行先は決まった。

何年ぶりだろうか、自然と足が遠のいていたその川は、あの時のままだった。
忘れていても、そこに立つとはっきり思い出す流れ。
水量はわずかに多めで、コンディションはほぼ理想的に思えた。
流れに足を踏み入れると、その先にあるはずのポイントが見えてくるよりも早く頭の中に浮かんでくる。
さすがに川底の様子は同じではないが、大きくは変わっていない。
好ポイントがいくつか現れる。これだけの渓相がありながら、ここ何年か訪れなかったのがフシギに思えた。
いったいなにがあって、足が遠のいてしまったのだろうか?
ヤマメ域ながらアマゴが釣れてしまう。
ヤマメ域のヤマメはどこへ行ったのかしら。
入渓してしばらくはなんの反応もない。徐々に陽は高くなっていき、じとっと汗ばんできた。
大きなプールを過ぎ、直角に曲がるポイントにきた。流れが90度に曲がる場所はあちこちの川にあるが、ここは流れの浅さと流速が素晴らしい。
下流側からクロスストリームでキャスト。まずまずのドリフトで通過。これなら魚が居ればまず出る。それが出ないと言うことは、・・・居ないのか。
何度か流して、上流へ。また思い出してきた。確かこの先には絶好のポイントが連続してあるのだ。
これからがこの川の本番だな。
棚田のようにプール・落ち込み・プール・落ち込みと続いている。その度に仕切り直しながらキャストするのだが、魚はさっぱり出てこなかった。谷あいもすっかり陽が差し込んできて、じわじわと暑くなってきた。
暑くなると頭が回らなくなってくる。思い切って場所がえすればという思いが頭をかすめるが、また次に好ポイントが見えて、ロッドを振ってしまう。
そして徐々に、少しづつ凝り固まった記憶がほどけてきた。
清涼な水と変化に富んだ川底。しかしそれが必ず魚を育むとは限らない。
また90度に曲がるポイントが現れた。その直角のぶっつけは水流だけでなく、川風もぶつかってくる。その涼やかな風を受けて、僕の煮えた頭はゆっくり冷却されていき、ほどけた記憶をはっきりと、たぐりよせ、思い出した。
この川は、釣れないのだ。そう、釣れたためしがないのだ。
そしてまた思い出した。この川に来るたびに何度こう思ったことか。毎回同じ思いをしていた。それでも何度か訪れたのは、渓相の良さにひょっとして、と淡い期待を抱いてのことなのか。前回の痛い思いを忘れてしまうからなのか。
そしてこの日も、このざまだ。
釣れないと思い始めると、どんな好ポイントでさえ魚が出てくる気がしない。
こんな時は休憩さえ上手に取れない。悪循環のサイクルにはまりこんでしまっている。僕自身にはそこから抜け出る手だては持っていない。
陽射しに頭がくらくらしてきた。さすがにヤバいと感じて、木陰の岩に腰を下ろした。
ベストを脱いで、ウェーダーも腰まで下ろし、ペットボトルのお茶を飲む。
ふぃ〜って一息つくが、目は次のポイントを見ていた。
それでもここへはまた来るような気がする。
もう僕の記憶など当てにならない。
腰を下ろした岩の、その先のポイントは、いる。いいのがいる。
何年か前に来た時に、ここでバラしたのだ。
じゃあなぜこの川に来なくなったのか? いろんな川のいい場所と悪い印象がごちゃまぜになっていたのか?
ああ、面倒くさい。とにかくここで一匹釣る。何がナンでも釣る。
暑さと釣れなさとでぐったりの僕の最後の一投は、ポイントど真ん中。次の瞬間、水面が弾け飛んだ。
幾年を経てそのポイントでその魚は待っている。
またしてもあっさりバレたその魚は、やはり僕の記憶の中に迷い込んで行ったのだろうか? そのひとつ上のポイントにフライを落とすと、ぐるりと水面がうねった。今度のそいつは、落ち込みを落ちてきて、僕の横を下流へ突っ走っていった。

この川はいいのか悪いのか、この日の釣りは良かったのか悪かったのか。
こんなふうに巡る展開に面食らって、僕はこの川の記憶を見失っていくのかも知れない。
谷の入り口のY字路。違う川を選ぶこともできる。