帰りの道中突然鳴った携帯はYからの電話だった。すれ違ったらしい。
「どうだった? 釣れた?」
「う〜、カミナリと雨で〜」
「明日じゃね」

突然の頭上の雷鳴は即座に落雷の直撃を連想させ、ロッドをたたむことをためらわせなかった。
そのあとの土砂降りが迷いまで押し流し、帰りの温泉は格別で、これはこれでまあよかったかな。
Yはこの日いつもの釣り仲間とキャンプで、僕は家に帰る。
明日、あの谷へ行こうとしていた。
朝露をまとった夏草。次の季節を迎える準備です。
「七時にキャンプ場で」
僕は二分遅刻した。朝露をまとった草原を歩く。素足にサンダルだから、足がびしょ濡れになってしまった。僕がテントに近づくと、入り口のファスナーが開いた。
「時間ぴったりじゃね」とY。
もう時計を見る必要はない。歯を磨くYを待ちながら、ほかの釣り仲間達と今年の釣りなぞを振り返る。
雪の多かった冬。雨の多かった梅雨。しっかり暑かった夏。
盆を過ぎ、ようやく猛暑の峠を過ぎて、それは禁漁の予兆でもある。

不安定な大気は毎日のように夕立を降らせていた。この日は午後から崩れるという予報だが、そんな気配は微塵にも感じさせない快晴のキャンプ場をあとにした。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
仲間三人はお留守番。僕らは谷へ向かった。
この密度の濃い谷に、最後の期待を込めて。
細く曲がりくねった山道のはるか下に渓がある。もちろん見えない。
道はどんどん降りていって、ようやく川筋と交わるところに車を停めた。
そこから川を歩くとほどなく巨大堰堤が現れる。この渓の最初にして最大の難関である。
この垂直の岩盤を登るのは初めてではないが、今の体型・体重では初めての経験だ。果たして登れるのかしら?
先にYが取りつく。
僕は彼の手と足の伸ばす先を頭にたたき込んだ。
まずこの堰堤左の岩盤を登ります。
なんとか無事堰堤上へ。 ガレ場の続く谷底の川筋。
まだどうにかこうにかクライミングは可能な体型ではあるようで、でも増えた体重を支えられるのは今年が最後かも。
何年ぶりかの堰堤上は相変わらずのガレ場の連続で、増水時の岩のころがりが想像できるようだ。
光の届かない薄暗い谷は生命感も薄い。伏流の多い流れに渓魚の気配は感じられなかった。
それでもせっかくここまで来たのだ。とにかく釣らなければ。Yが先行する。僕はうしろからファインダーをのぞくが、彼との釣りもずいぶんと久しぶりだった。
以前はよくいっしょに釣りに出掛けていたが、お互いになにかと周辺の忙しさに振り回されて、もう何年もいっしょに行っていなかった。
Yと行く川はどちらかというとちょっと変わった場所が多かった。初めて行った時からしてそうだった。落差の大きな滝を巻いてその上の人の立ち入りそうもない区間への挑戦だったのだ。
そのあともそんな難関を乗り越える場所を好んで選んでいた。
この日の谷もその頃入った川のひとつだ。
キビシイ生活環境を想像させる痩せたアマゴ。
えてしてそういう秘境めいた場所では良い釣りができないものだ。
人の訪れにくい場所は荒らされていない気もするが、渓魚にとっても棲みにくい場所であることが多い。
膨大な労力の代償に得るものは、やせ細ったアマゴやドロッパエ・・・、なんてことも珍しい話ではない。

僕もYも徐々にそんな事情がわかり始めて、少しずつこういった場所から遠のいていったのかも知れない。
谷底にもいつもと変わらない営みがある。
それでも今年の夏の終わりにまたこの谷を目指したのは、また難関を乗り越える達成感を味わいたくなったのか、そこにとんてもない魚が育ってやしないかっていう期待を求めてなのか。
朝のうち薄暗かった谷底も、ようやく残暑の日差しが入り込んできて、じーじーとセミの声も聞こえてきた。
ロッドを振りながら歩く先の風景は何年か前の夏の終わりと変わっていなかった。
この滝を越えるとこの谷の釣りも終わる。
こんな容易には釣り人が立ち入ることのできなさそうな谷の役割は、行こうと約束した時からの、部屋であれこれイメージしてわくわくさせる、その時点で完結しているのかも知れない。
実際にその地に赴けば現実を目の当たりにして奮起したり落胆したりといろいろあるが、そこに行き着くまでの期待の高鳴りは釣りに厳しい季節の清涼剤だ。

谷を上がると真夏のそれとは確かに違う風が過ぎていった。
そして、仲間の待つキャンプ場へ。