「支度がいいから、釣れるのお」
畑仕事の最中のおじさんが声をかけてきた。支度がいい・・、僕の格好のことをいっているようだが、かなり照れる。
「あ、はい、どうも・・・」
と、会釈しながら足早に川へ降りた。
突然の見知らぬ訪問者に、早速のリップサービス、ありがとうございます。ご期待にそうよう精いっぱい努力いたしますです、はい。

体が妙に軽く感じるのは、ベストの下はフィールドシャツとTシャツだけだからだ。今日は足取りも軽い。
野も山もちょっとずつ彩りが賑やかになってきています。
今朝方、インターチェンジを降りてすぐの川で、ゴールデンウィーク恒例の釣り大会をやっていた。
短い区間にかなりの釣り人が入り、路上にも多くの車が止まっていた。この日のために魚も入れているだろうから、そうとう釣れるに違いない。
ギャラリーもかなりの数で、下手に川の釣りの様子を見ながら運転するわけにはいかないが、朝っぱらからかなり賑やかだ。
僕はと言えば、そんな有名河川の喧騒をあとに、およそだれも訪れないであろう山里を目指した。そこでの釣りをイメージしたら、いてもたってもいられなくなったのだ。
早咲きの山ツツジ。華やかさを後押し。 気分良く釣りができます。
ありがとう、おじさん。
放射冷却が関係しているかどうかわからないが、晴れの朝の渓の水は冷たい。それがこれまた影響しているのかどうか、魚の反応が渋い。
良いポイントに限って、良いサイズに限って、あと少しのところでバラす。それが朝から立て続け。その魚影の濃さには脱帽だが、いい加減キャッチしろよな。

じわりと背中に熱を感じた。好天のこの日、ようやくの春かと思いきや、それをちょっと通り越してしまっていた。
のどかな流れだが、実はこれで源流帯。
およそ高速道路からも国道からも、県道からでさえ見放された(し、失礼!)山奥の集落。きっと冬は雪で閉ざされるに違いない。
インターチェンジを降りたところの町でさえ、五月の祭りで華やかなだけで、普段はのどかなものだろう。

僕みたいな突然の来訪者を、住んでいる人たちはどう思うのかな。
解禁になった途端にばたばたと訪れて、禁漁になったらぱったりと、来なくなる。考えてみれば勝手ですな。
せめてマナーだけは良くせねば・・・、と切って取り損なったティペットを慌てて探す僕。
お馴染のマエグロ。今日は水辺で。
この川の源流に近いこの辺りは、山岳の険しさはない。
本流から分かれた支流の途中には集落は見られず、源流帯までくるとぽつりぽつりと民家が現れる。
農作業の人がひとりふたり、たまに道路を軽トラックが通り過ぎる。それだけだ。
こんな場所に流れる渓に、ほそぼそとヤマメが棲んでいる。釣り大会のような成魚放流の良い型は釣れなくても、静かな渓で好きなようにロッドを振れることが僕にとってはなによりのフレッシュエアーになる。
ようやく何匹かキャッチしたころには、流れもかなり細くなってきていた。
それに比例して釣れるヤマメのサイズも小さくなってきている。
逆に魚影は濃く、一歩一匹のペースになってしまった。
そして相変わらずたまに出る良い型だけはバラしてしまう。調子が良いんだか悪いんだかわからない。
例によってマエグロはこの川でもそのテリトリーを確立していて、花岡岩の上を陣取っていた。

気温は朝から更に上がってきて、でも時折吹く風が気持ち良い。また一匹、チビヤマメが釣れて、なんともリラックスしてしまう。騒がしい街に戻るのがいやになっちゃいそうだ。
お、また一匹。
この里のもうひとりの住人。
車に戻り、ロッドをたたんだ。
また黄砂が飛来したらしく、景色がぼんやり霞んでいた。
満開を過ぎ、僅かに花を残す山桜がひらひらと散って僕の視界をかすめる。春を少しだけ通り過ぎた里に、脳のこわばりでさえもほぐれた気がした。

車で集落を通過する時、今朝方のおじさんが、自宅の縁側に座っていた。
僕は軽く会釈をしながら、賑やかな街へ向かった。
残してきた足跡はもう乾いて消えている頃。