空が見えない。
雨も降っているのか止んでいるのかわからない。
岩の上の白いものが大葉麻殻の花と気が付き、すでに花の落ちる時期のピークは過ぎていることがわかった。
巨木の林立するこの谷は、はるか頭上に広がる枝葉が屋根になる。
見上げる角度で標高を上げていく谷に、その生活環境の厳しさを耐え抜いたゴギがいる。
ゴギは谷に守られ、谷は山の木々に守られている。僕はその谷へ足を踏み入れた。
おお〜っ、み、水がない。
この谷には気になる場所があった。
「魚切」と名付けられた場所だ。同じ名前の地名はあちこちにある。大抵の場合、魚の横行が困難な場所に付けられている。落差の大きい滝とか。
去年ここを訪れた時、この谷の「魚切」という看板の出ている場所を通過した途端、全くゴギが釣れなくなった。
そこは特に大きな滝があるわけでもなく、ただの浅い流れが点在する小岩を縫うように流れているだけだった。
なにがあってそこから先に魚が棲めないのか。なにが魚を切っているのか。本当はまだ上流にゴギはいるのではないか。

ゴギは快調に釣れた。
高低差が大きい谷なので小さな滝が次々と現れる。もちろんゴギならいとも簡単に登って行ける程度の落差の滝だ。
不意に鈴の音が聞こえた。
時折陽が射すと、まるで後光が射しているかのように輝く木々。
この渓は川沿いに遊歩道がある。
魚切の看板も遊歩道の案内板のひとつだ。鈴の音は山の散策の人たちの鳴らすクマよけだった。
またジロジロ見られるな〜って思っていると、その人たちはさっさと通り過ぎて行った。
むむ、そうなるとそれはそれで物足りないな。

少し落差の大きな滝に行き当たった。これはゴギが登れるかどうか、微妙な高さだった。
木々や渓に守られているゴギ大明神。
今年も飽きずに滝を登っております。 見上げる谷の先に水は見えない。
滝を登ると平たい流れの続く場所に出た。「魚切」だった。
何度かフライを流したが確かに反応はなかった。そのまま上流へ向かった。横を見るとまた遊歩道を数人の散策の人たちが歩いていた。なぜか四国八十八ヶ所の巡礼をしているお遍路さんを想像させた。
少し歩くと人もゴギもとても登れそうもない落差の滝が現れた。魚切がどうのこうのというよりも、この滝で魚止めではないか。去年はこの谷を見る前に引き返していた。
魚切の名付けのいきさつはそのすぐ先にあるこの滝の存在を示していたのかも知れない。
もう釣り人としてはこれより上流には用はないな。僕は帰ろうと思った。遊歩道を歩けば楽に帰れる。
川から遊歩道に上がった時、ここを黙々と歩いていた人たちのことが気になってきた。
遊歩道の案内板には川はまだこの先はかなりの距離が続いていて、そのどんづまりにナントカ頭っていう場所が記されていた。
雰囲気からするとかなり大きな滝で、ここの散策ルートの目玉になっているようだ。上流へ向かった人たちはそこを目指しているのだろうか。
そのナントカ頭に惹かれた訳ではないが、やはり目の前の大滝の更に上流に竿を出してみたいというのが本音だった。
僕は遊歩道を上流側へ向かった。滝を巻く歩道は大きく迂回していて、川は見えなくなった。
いつしか川よりも山の木々のコンディションで釣行先を選ぶようになってきた。
大滝の上はまたフラットな流れになっていた。
小さなよどみにフライを落とすとなんとも呆気なくゴギが出た。なにが「魚切」だ。
しかし最初からここに居たのか誰かの手によって移されたものなのか。いずれにしても、このゴギは実にきれいな魚体をしていた。
滝に遮断されて下流のゴギと行き来がなくなって、この流れに純粋に育まれたゴギなのだろう。
同じサイズならより美しい魚体に価値を求めるのも頷ける。
しかし、ほどなくしてまた滝が現れた。
この日何本目の滝なのか。しかも今度のは先ほどの大滝よりも落差がありそうだ。だとしたら今度こそ本当に魚止めの滝か。
滝つぼも狭く深いもので、何度かフライを流してもゴギは出てこなかった。
(この滝の上は?)
水量はまだ衰えず、ひょっとしたら今まで以上のゴギが出てくるかも知れない。この落差では先ほどの滝同様ゴギは登れない。誰かがこの上流へゴギを入れていれば可能性はある。
遊歩道は相変わらずすぐ横にある。そろそろ案内板にあったナントカ頭が近いはずだ。この滝の上に行けば見えるかも知れない。

ふとまたお遍路さんたちのことが思い出された。この滝の上は彼らのテリトリーであるように思えた。本来なら釣り人のテリトリーは魚止めの滝までだ。僕は引き返すことにためらいを感じない自分に少し驚いた。
そうは言ってもちょっとだけ・・・。