何日か前に降った雨の影響か、水位は高目でやたらと冷たい。
強い流れは遡行を阻み、フライのドリフトをも不自然なものにする(それはウデ?)。
ポイントとしては一級品の連続なのだが、魚の気配が感じられない。一度好ポイントの沈黙を目にしたら、そのあと現れるどんな流れにも魚が潜んでいるようには思えなくなってしまう。
そんな油断を突いてでかいのが出たりすることもあるのだが、この日はそんな嬉しい誤算さえ起こりそうもなかった。

去年の秋、何度かペアリングを見に行った谷へ出掛けることにした。
解禁後すぐに行かなかったのは新緑の季節を待っていたのだ。
その谷は深く切れ込んだV字谷で、広葉樹で埋め尽くされている。その谷の新緑の様をこの目で見てみたかった。
新緑に埋もれる渓。その落差は予想を越えた。
新緑はなんとも素晴らしかった。
谷の上、山腹を通る細い県道から見える谷底は新緑の海に沈んでいた。
広めの離合帯に車を停め、斜面をつたってはるか下にある谷底へ降りていった。
頭上までも緑におおわれた川筋はぽっかりトンネルのような空間があいている。そこを流れる水は見えない圧力を感じさせる勢いがあった。
しかし、それからほぼ二時間、まったく魚の影も見えない。
秋にペアリングを見たからと言ってその魚が居るとは限らないが、ここまでスッカラカンとは・・・。
絶妙の間隔で配される岩。渓相は抜群だが。
こうなったら場所替えをする方が懸命だ。
改めて斜面を見上げる。僕が朝方通ってきた県道はどのあたりにあるのか、見当もつかない。
県道から見下ろした渓は新緑に埋もれていたが、渓から見上げる県道も緑の壁にさえぎられて全く見えない。
もう少し釣り上がっていけば、県道と近づいてくるかもしれない。少なくともここからじゃあどれだけ斜面を登ればいいのかわからない。

もはやこの川で魚は釣れないのではないか? そんな不信感が一旦芽生えると止まらなくなる。
しかし県道へ登れる場所が見つかるまでは、無駄に川を歩くだけではもったいないと、そうも思ってしまう。
期待をもてずにキャストし、流れるフライ。なんの変化もなく流し切りピックアップを繰り返した。
新緑の屋根が紫外線をカット。
しばらく行くと、ここはいくらなんでも出ない訳はないんじゃないか? というようなポイントが現れた。
ふと、今日はここが最初で最後のポイントだと直感した。ここを逃したらもう魚は釣れない。
今日を惨めな釣りにしないために、ここだけはモノにせねばならない、と。
フライをチェックし、ティペットをグイと引っ張ってみた。プツッと切れる。すぐ結び変えた。
深呼吸してしばらくポイントを見つめた。ここまでしなくていいんじゃないかとも思うが、たぶん一投目で決まる。
大きく息を吸ってピックアップ、吐き出すと同時にフォワードキャスト。そのままフライをポイントへ放り込んだ。少しドラグがかかる。メンディングをするとフライが動いた。そのままフライは流れに引きずられてしまった。
斜面を見上げても相変わらず県道が接近する気配はない。
今見えている斜面を登っていく気力はもっとない。
結局さっきのポイントもなんの変化もなかった。一匹の魚も手にせず、川通しで下っていくのか? それもきつい。

少しづつ空が雲でおおわれ、谷が暗くなってきた。
予報では午後から雨と言っていた。崩れ出すのが遅れているようだが、いつ降り出してもおかしくない。
魚は釣れず、エスケープルートも確保できていない。だんだん心細くなってきた。
これで雨が降り出せば、最悪だ。
あきらめが悪く、ずるずるとロッドを振り続けた結果、僕はどんどんこの川から抜け出せなくなっていった。
勾配50度(?)の道なき道を行く。
ポトンと落としたフライがスッと消えた。反射的にロッドをあおると忘れかけていた魚の手応えがその先にあった。
全くなんの予兆もなく、この日最初の一匹が釣れてしまった。
ここまでさんざんフライを投げ続けて、ウンともスンとも言わなかったのに、実に呆気ない。
僕は釣れたヤマメよりも先に斜面を見た。あとは渓から脱出するだけだ。しかしこのあたりからも上へは登れそうもない。
不意に後ろが気になった。
振り返ると男がひとり、立っていた。
多くの代償と引き換えに出会う一匹。
ギクリとした。しかし、男は僕を気にするふうでもなく黙って上流へ向けて歩いて行った。
釣り竿は持っていないが格好はどう見ても釣り師だった。背中にザックを背負っているから、その中にしまっているのか?
いつから後方にいたのか、どこか途中から降りてきたのか。
僕はもう釣りを続ける気はなくなっていたから、追い抜かれても構わなかった。と言うより、男が僕のそんな状態を見透かしていて、追い抜いて行ったようでもあった。
僕はここから県道へ登ることに決めた。
二〜三歩登っては休み、登っては休みを繰り返した。ガレ場とブッシュと木立が垂直に近いような急斜面に入り乱れて、不用意に体を起こすと後方へひっくり返りそうだ。
どれくらい時間がたっただろう。ようやく県道まではい上がった。汗が吹き出し息が切れた。もうこの川はごめんだ。
県道から川を見下ろすと、登り始めたところのすぐ上流には黒々とした水をたたえた淵が横たわっているのが見えた。両岸は切り立っている。
さっきの男はあんなところを巻いたのだろうか。この先に川から脱出出来る場所はあるのだろうか。

車のところまで戻る途中、谷とは反対の山側から水音が聞こえてきた。このあたりに支流があったっけ? 音からするとかなりの水量に思えた。
気になって森の中へ足を踏み入れた。水音は大きくなった。
僕は新たな期待に汗の不快さも忘れていた。
そして、また森の奥へ。