ヤマメのようにすばやい出方でフライははね飛ばされた。
「早い!」
R君はたまらず声を上げた。間違いなくゴギのはずなのに、相当スレているなあ。
ゆっくりぬる〜っと出てきてフライをくわえる、あのゴギの出方をイメージしているから面食らってしまう。
僕は上流を見た。
これからこの川を登っていく。どこまで行けるのかは未確認だ。
違うか。どこまで釣りが出来るかだ。早朝の渓はひんやりしていた。まだこの日の釣りが見えない。
戦闘準備完了。
釣りに厳しい季節は気構えも厳しくなる。
北と南を1000m級の峰に挟まれたこの谷は、1/25000の地形図で見てもその密な等高線の具合からしても、どれほど険しいかがよくわかる。
林道が川筋から離れ始める場所に車を停め、そこから上流を目指した。
R君にとっては釣りそのものが久しぶりだし、僕も彼と釣りに行くのは去年の夏以来一年ぶりだった。
夏の釣りがつらい季節にどこへ行こうかと悩んだ末、この険しい谷を思い出した。
僕にとっても十年ぶりくらいだろうか。もちろんR君は初めての谷だった。いやでも期待は高まっていた。
夏にゴギを釣りに行くのは暑さによく効く良薬だ。
バタバタっとゴギが釣れた。
険しいとは言っても釣り人が入らぬ訳はない。それでも魚がしっかり残っているのはこの谷の力なのだろうか?
特に増水している様子ではない。ほかの川でなら渇水の煮えたような状況が想像できるから、普通の水位であることが増水と言えるのかも知れない。
僕の十年前の記憶も不確かだった。
かなりの上流から入渓したのだから、狭く木がかぶさっているかと思えば、全く違った。
開けた川筋の空間は、木の枝を気にすることなくバックキャストができるほどだ。
おまけにクモの巣がない。前回の川全体をクモの巣ネットがおおっている状況からは考えられない快適さだ。
それになんと言っても魚がちゃんと釣れるのだから、相当なものだ。
ただ目の前で滞空するブヨの数は尋常ではなかった。深く暗いこの谷ではこればっかりは避けようがない。
徐々に標高を上げていく。
明らかに里の川の様子と違ってくる。
ロッドは振りやすいが、そこはやはり上流域である。歩くと言うよりも登ると言ったほうが正しい。
岩をひとつ乗り越えて、そこに現れるポイントを流す。次のポイントは見えない。また岩を乗り越えなければならないからだ。
R君が声を上げた。ロッドが大きくしなっている。
「もう一匹!、今掛かったゴギにもう一匹ついてきてます。これもでかい」
R君はすばやく掛かったゴギを取り込み、僕についてきたもう一匹を釣るよう促した。僕は言われるまでもなくフライをガイドから外していた。R君と同じポイントへキャスト。しかしもう一匹は出てこなかった。
R君に一歩リードを許した。
ゴギがテンポよく釣れるから、一匹釣ったら先行を交代することにした。
時間がいくらか経ったから少し蒸し暑さが出てきた。
川の流れの規模は入渓時とあまり変わらず、ただ標高だけが変わっていくという感じだ。
木陰で一旦休憩。
R君はこの日の釣りでこんな数釣れるとは思っていなかったらしい。
「よそだったら一日歩いて一匹二匹だってありうりますよ。ここはいいですね〜」と上機嫌だ。
実際夏に数釣りはあまり経験がないなあ。
一匹ルールが吉と出るか凶と出るか。
滝の上流もまだゴギはいた。 徐々にストレスのない出方になってきた。
かなり上流まで来た。
大きな落差の滝が前方に現れた。この滝は僕の記憶にない。僕はここまで来たことがないようだ。
一匹ルールで僕の順番だった。
一投目、滝つぼプールのほぼ中央。モソッという感じでフライが消え、僕は掛かったゴギを速攻で抜き上げた。
「まだ荒れてないよ」
僕はR君にそう伝え後ろに下がった。
R君の一投目、僕がゴギのフックを外していると、
「よっしゃあ!」と声が上がった。
ロッドは大きく曲がっていた。
よっぽどの型でないとネットは出しませんが。
ゴギをリリースしてR君を見ると、ゴギはまだ滝つぼプールを走り回っていた。
ロッドの曲がりはついにはその先端がR君の足下を向くようになっていた。
「あ〜っ!!」
この日何度目かのR君の叫び。手前の岩の間に潜られてバレたようだ。
ゴギも大きくなるほどに狡猾になっていく。そう簡単には釣れてはくれない。

滝を巻いてその上流へ。
この先どこまで釣りが可能なのか。
まだ川筋は開けたままでクモの巣もないままだった。時間は昼近くになっていた。さすがにかなり暑くなってきている。それでも街の暑さよりはずいぶんましなはずだ。
およそ1000mもの標高差があるのだから。
滝上の区間もゴギはいた。ここまでよりもわずかにサイズアップしてきているようだ。
この川のゴギを育む能力のすごさがあらためて感じられた。
ゴギが釣り人を見る時、どんな気持ちで見るだろうか。
周囲の山の峰がかなり近くに見えてきた。
間違いなく源流は近い。
きっと本当の源流の流れになると、ゴギも住んでいられないくらいの水量だろう。
ならばゴギが生息可能な最上流が、釣り人にとっての源流となりうるはずだ。
この日の釣りはその意味の源流に限りなく近づいている。

またR君のロッドが曲がった。
次いで僕が前に出る。一発で出た。これもなかなかの型で、取り込んで写真を撮ることにした。
僕が写真を撮っているその間にR君は良型を二匹釣った。
もうここまで来ると放流の手も及ばない。
天空から流れ出るようなこの谷に生き続けているゴギを釣り、確かな源流の手応えを感じた。
R君が僕を見た。
もう十分だという顔をしていた。
釣れなくなるまで釣り上がるのではなく、よく釣れているところまでで終わろう。
それもまた釣り人的には源流と言えそうだ。
源流を前にして、最上流の一匹を。