携帯のディスプレイを見ると確かに八時半だった。いや、それは見るまでもなく部屋の暑さで、寝坊したと理解した。
真夏の釣りで出発が九時前とはたいしたものだが、まだ手遅れではないだろう。川のコンディションさえ良ければ日中でもちゃんと釣れるはずだ。

車に乗り込みインターチェンジに向かう途中の情報掲示板。一瞬「下り線 事故 渋滞」の文字が見えた。
携帯で道路情報を見ると、確かに僕が通る下り線はこのインターチェンジの先で事故渋滞になっていた。
渋滞は14km。僕は高速は断念し、途中までは一般道を使う事にした。しかしすでに九時過ぎの市街地はこれまた混んでいた。
釣りに行くのにこれだけ最初でつまずくのも珍しい。いっそのことこの日はやめておいたほうがいいかもしれないと、一瞬頭をよぎった。
しかし川へ行きさえすればきっと、とそんな期待が勝り、僕は車の向きは変えなかった。
釣りには流れがある。川の条件と釣り手のリズム。あとは・・・。
11時前にいつも入る温泉のある集落に着いた。このあたりもすでに35度近くになっていそうだ。
この時間からどこの川へ入ろうか。いくつかの候補のうち、集落の南側の谷へ入ってみる事にした。
ここ何年も入っていない谷だった。谷沿いの林道は狭く草に埋もれていた。谷に降りると予想していたほどのカラカラの渇水ではないように見えた。
フッと涼風が吹いた。なんとも涼やかで気持ちいい。ブヨもいない。これは遅くなっても無理して来た甲斐があったのではないか。
いい釣りになる予感がしてきた。
渇水の渓は魚にも釣り人にも厳しかった。
しばらくは反応のないまま上流へ歩くだけだった。
確かこの先で高巻きの出来ない淵があったはずだ。その淵がもうすぐというところで、細い流れを流すと岩のえぐれの下からフライへのアタックがあった。
全く唐突にヤマメが釣れた。これでボウズはまぬかれた。ネットですくい、写真を撮ろうと水際を歩くと、スッと足元の感触がなくなった。
次の瞬間腰に激痛が走った。滑って尻餅を着いて腰を強打したのだ。
僕は痛みにうずくまり、動けなくなった。こんな派手なこけ方は何年ぶりかのことだ。
このヤマメが釣れてから、「それ」は始まった。
痛みに脂汗が出る。当分動くのがこわくてじっとしていた。
気が付くとかたわらのネットにはまだヤマメが入ったままだ。うまいぐあいに魚体は流れのl中に浸かっていた。
呼吸が苦しかったがなんとか体を起こせた。帽子をとりベストを脱いだ。すると帽子には十匹くらいの毛虫がついているではないか。僕がかぶっていた内側にもいる。
僕はその時だけ腰の痛みも忘れて帽子の毛虫を振り払った。だがこの分じゃベストやシャツにもたくさんついていそうだ。
なによりも僕のいる場所が悪いのか。上の木からぽたぽた落ちてきているのは明らかだった。
僕はヤマメをリリースし、ネットとロッドとベストを引きずりながら木の下から逃げ、炎天下のもとでまた座り込んだ。
この先の淵で、上の林道まで斜面を登らなければならない。果たして足腰はちゃんと動くのだろうか? 日なたにずっといても具合が悪くなりそうで、僕はまた立ってみた。腰はズキズキ痛むが歩けない事はなかった。
水の中のロッドとリールはなぜかそれが自然な居場所のような気がする。
林道に上がる前にやはり淵に投げてみる事にした。腰の状況がそんなことをしている場合なのかどうかはあるが、どうしても気が済まない。
しかし数投しただけでやはりラインを巻き取った。リールを見るとスプールの穴から虫がのぞいている。どうやらラインにとまっていてそのまま巻き込まれたのだろう。
僕はそっとつまんで引っ張り出してやった。
「痛っ!」と痛みが走った。一瞬なんだかわからなかったが、すぐにその虫に刺されたと気が付いた。
僕はその虫がアリだと勝手に思い込んでいたが、実は蜂だったようだ。助けてやろうと思ったのになんてヤツだ。僕は刺された所を何度も吸い、吐き出した。だがそこはみるみる腫れていった
長袖のボタンを留め、首の一番上までボタンをして、斜面に取りついた。
上の林道がはるか彼方に思えた。
垂直に近い斜面を腰と腫れた右手をかばいながらゆっくりと登っていった。つかむ木の枝に毛虫がいないかと、十分見てからつかんだ。
腰は体の要(かなめ)だと実感した。痛みで腰が本来の働きをしないと、こんなにも体の動きの妨げになるのだということがいやというほどわかった。
大げさでなく命からがら林道まで上がった。
このままもう帰るべきだろうと思ったが、煮え切らない思いが残っていた。
ロッドティップに赤とんぼがとまると、シーズンの終盤を感じるなあ。
少し林道を上流へ向けて歩いてみた。
痛みは腰の中央。しかしひざを上げてみると腰の横にもかなり痛みが走る。こういう時はあまり動かさないほうがいいのだろうか? わからないままでいることが不安だった。そのうちまた川が林道に近づいてきた。ここなら難なく降りれる。
今僕の気持ちは腰の心配よりももう少し釣り欲を満たす事に走った。川に降り、ロッドを振った。今がいったい何時頃なのか。太陽は雲に隠れたり顔を出したりを繰り返している。
水は少なく見えたが、その分ポイントが限られるから無駄な労力は使わずに絞って攻めることが出来た。
幸運にもクモの巣は少ない。ブヨは寄ってくるが、虫よけが効いている。
あと一匹だけ。一匹だけ釣れたら車に戻ろう。そう自分に言い聞かせた。
帽子のつばに動くものが見えた。帽子を取って見るとまた毛虫だった。五匹はいた。
今年の夏は雨が降らない。そして暑い。毛虫が大発生する条件はそろっていた。
毛虫のいなさそうなところを選んで休憩した。用を足そうと思い山際へいくと、危険を感じさせる模様が目に止まった。
マムシだ。今年始めて見た。
体をくねらせて縮め、今にも飛びかかろうと言う体勢だ。
ふと見ると足下にももう一匹いた。僕は飛びのいて、その拍子に腰をひねってしまった。
こんな時にこんなマーブル斑点のゴギが釣れたりするものだ。
また脂汗が出る。
こんな釣りは楽しくもなんともない。
唐突にゴギがフライをくわえた。
ネットに収まった魚体のマーブル模様になにを思うでもなく僕は次のポイントに目をやっていた。
あれほどもう一匹釣ったら戻ろうと思っていたのに僕は上流へ歩いていた。
斜面に見えていた林道はもう視界から消えていた。
腰の強打に毛虫に蜂にマムシ。恐ろしいものばかりだ。
しかし、本当の魔物は釣りをやめようとしない僕の中にいた。
林道も川も消え、いるはずのない魚を求めて・・。