其の八十四  遡るキヲクと遠ざかるキリョク
故郷の川で、フライフィッシングはしたことがない。
べつにヤマメやゴギでなくても、ハヤでもフナでもいいんだけど、とにかくフライロッドを振ったことはない。
果たしてフライで釣れない魚はいるのか?
などという、フライフィッシング世界のかなり深いところの議論はさておき、故郷の川でフライをしてみたいなーっていうのはぼんやりとではあるが、思っていた。

それにはまずは帰省の時に釣り道具を持って帰らないとハナシにならない。
ばたばたと師走を過ぎてようやく帰ろうとする時に、ネックになるのは荷物の整理だ。
釣り道具はとかくかさばる。それだけで「ふー」って感じなのに、それにほかの荷物も? ちょっとくじけちゃうかなー・・。
S瓶川中流域。生活の中に入り込んでいる川。
30を過ぎてからフライフィッシングを始めたから、やはり故郷の川にフライのイメージを重ねることは難しい。
実家の目の前の川はさすがにムリっぽいが、ちょっと車で走ればフライフィッシングが出来そうな川はちゃんとある。それでもじゃあそこで釣りする? と問われれば、どうだろう・・。

釣りに行ったらやっぱりどれだけ満足するか、しないか、はポイントになる。
どこまでどんなことを追求するかはその時々で違いはある。
釣果そのものであったり気候の気持ち良さであったり景色の美しさであったりお昼ご飯の美味しさだったりとか、そういったものに接する前段階の期待の高まりなんかも、満足度に含まれるのだという気がする。
すると故郷の川でフライフィッシングをする場合、ナニを求めればいいのだろうか?
「ここなら釣れる」っていう場所は、いつもの通い慣れた川にたくさんある。
地元の川がロケーション的に惹かれるところがあるかと言えば、これもどうだろう。

そうなると、故郷のフライフィッシングは「感傷」を求めて、だったりするのでは?
子供の頃の記憶を辿り、遡りながら 何十年も経った今はこんな釣りをしているんだと言うギャップを確認する。
過去の自分に今の自分を象徴するフライフィッシングを重ねて、それを誇らしく思いロッドを振る。
自分の生まれ育った場所で、何かくすぐったいような、気恥ずかしい気もしないではない。
でも、きっと私は次の帰省の時もフライの道具は持って帰らない。
やっぱり荷物の整理が面倒くさいっていうのもあるし、冬の小河川でナニが釣れるのか、というのもある。
そして、どうも故郷の川にはフライが似合わないという気もするからだ。

何万円もする高価な道具ではなく、もっと安っぽい道具立てが、それでミミズでもつけてウキを浮かべての釣りの方が、しっくりくるように思う。

そんな釣りなら、また今度帰省した時にちょっとやってみようかな、なんていう気になるかも知れない。